社会が変化し始めた時期に誕生した山王こどもセンター
大阪市西成区山王にある山王こどもセンター(以下、こどもセンター)は、1964年(昭和39)年にドイツ人の宣教師、エリザベス・ストロームさんが自宅で幼児を預かったことから始まった。この年は第18回東京五輪が開催された、戦後日本にとって大きな節目になった年である。
すでに1956(昭和31)年に政府は経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言していたものの、多くの人が自国の経済成長をリアルに実感し始めたのはこの時期からだったのではないかと思う。
西成区自体もこの時期以降に大きな変貌を遂げた。西成区にはあいりん地域(「あいりん」は1966(昭和41)年の第1回あいりん対策三者連絡協議会において行政施策上の呼称として決定されたもの。釜ヶ崎という呼称もあるが、これは町名変更によって消滅したかつての地名)と呼ばれる労働者が集まっていたエリアがあるが、この地域に仕事を求めて全国から多くの人が流入し始めたのが同時期なのである。
「日雇労働市場が全盛期であった昭和40年代から平成初頭にかけてまでは、あいりん地域は全国から仕事を求めて労働者が流れ込む『労働者のまち』であった。地域経済も、労働者の消費を支える形で円滑に回っていた」(大阪市・第三期西成特区構想 ~これまでの取組と今後の実施方針~(案))
西成と聞くと労働者のまちとして、あまりかんばしくないイメージを持っている人がいるが、それはこの時期に起きた変化が生んだものなのである。
存続の危機を乗り越えて建て替えへ
それから2023年時点で59年。個人のボランティア活動として始まったこどもセンターは1983年にストロームさんが定年で帰国、1985年に運営母体の日本福音ルーテル教会が財政難で閉鎖を決定するなど何度も存続の危機に陥った。
だが、「ここを必要とする子どもたちがいる」と父母や支援者がそのたびに立ち上がり、存続し続けてきた。閉鎖が決定された後、1986年には有志者の出資金で土地建物を買い取って自主運営を続けてきており、1990年には運営組織として理事会を設置。1996年には社会福祉法人としての資格を取得、児童館として大阪市のこどもの家事業(*)を行ってきた。2011年には就労継続支援B型事業所として山王おとなセンターを開設。これは主にこどもセンターを巣立つ障がい児、地元で働いていた障がい者のための施設である。
現施設長の田村幸恵さんが運営を引き継いだのは2020年4月のこと。
「以前の建物はストロームさんが借りて使っていたもので築80年以上。阪神・淡路大震災でも無事でしたが、なにしろ古い。このままでは何かあったときに子どもたちの命を守れないと、建て替えの話は以前から出ていました。ただ、こどもセンターの経済状況では自分たちの資金だけでの建て替えは難しい。ところが、こどもセンターの活動に沿った助成事業を見つけることができ、本格的に検討することになりました」
古さ以外にも建て替えたいという要因があった。
「小学校区は隣接する阿倍野区です。阿倍野区の子どもたちもこどもセンターで共に学び、育ちたいという想いがあります。しかしながら、子どもたちが遊びたいと希望しても、区境に見えない壁を作り、踏み入れないようにと言う親もいます。それをこどもセンターを新しく、誇らしく感じる場所に変えることで少しでも変えられないか。そんな想いもありました」
*2013年度に廃止
クラウドファンディングに多くの支援
大人たちだけが建て替えを決めてしまうのもどうかと子どもたちにも意見を聞いた。するとまだ建て替えも決まっていない時点というのに、「いぇ~い、新しくなるんだ!」と意見を聞いた全員が大喜び。大人たちとしてはこうなったら建て替えざるを得ない。最終的には日本財団の「子ども第三の居場所」事業に応募、5,000万円の助成を受けられることになった。
だが、それでかかる費用全額を賄えたわけではない。当初は建設費として3,000万円ほどを想定していたものの、計画面積が広いことと、この間の資材高騰などで最終的には6,500万円以上かかることになったのだ。不足分は3,000万円以上に及ぶ。
「助成されるのは子どもに関する部分のみでおとなセンター分は出ませんし、解体費用も対象外。そこでクラウドファンディングを実施、教会や昔からの応援者の方々などから2ヶ月で1,500万円ほどが集まりました。それでも不足する分は再度お願いに回り、自分たちでも融資を受けて返済することになりました」
初のクラウドファンディング挑戦には不安もあった。ところが始めてみると励まされることばかりだったと田村さん。
「情報を拡散してくださる方も多く、日々金額が増えていくのが見え、応援の電話がきたり、「新聞を見た」と記事の切り抜きと一緒に現金を持ってきてくださる方がいたりと応援の声が多く、本当にありがたかったです」
子どもと大人が触れ合い、互いに元気になれる場所
それだけの応援があったのはこどもセンターが地域に愛されてきた証しだろう。子どもが集まる場と言いながら、関わる大人たちも子どもたちに会うことで元気をもらっていたと田村さん。
「こどもセンターは路地に面して縁側があり、ここはいつも開けっぱなし。子どもたちが路地で遊んでいないときにも、すれ違いざまに挨拶していく人やみかんを持ってきてくれる人がいるなど、子どもと触れ合うことを楽しみにしている人たちがいます。ここに来ると元気をもらえるとボランティアに来てくださる方も少なくありません。子どもにとっても、いろんな大人と触れ合う、見守ってもらうのは視野を広げ、社会を知るという意味でよい経験。新しいこどもセンターでも路地側には縁側ができます」
もちろん、子ども、そして親にとってもこどもセンターは得がたい場所である。小学生の頃に通い出し、その後、中学、高校と通い、さらに大人になってからはボランティアとして関わる人がいること、何年かたって思い出して訪ねてくる人がいることを考えると、その人の人生にこの場があったという意味の大きさが分かるだろう。
民間施設であるこどもセンターは緩やかなルールで運営されており、そこから子どもたちが学ぶことも多い。
「不登校だったり、多動的な行動のある子だったり、ルールでは縛りにくい子どもも多く、小競り合いが起きるのは日常茶飯事。でも、友達同士で喧嘩をすることも人生には必要。子どもの頃にそうした経験をしないまま大人になると、喧嘩ができなかったり、あるいはやりすぎてしまったりと生きづらくなることも。そこで免疫をつけることと考えて様子を見守り、最初から止めることはしません」
路地も利用、子どもから大人まで一緒になって遊ぶ
新しくなったこどもセンターはL字形になった2階建て。1階は商店街に面した入り口側にキッチンと地域で使えるサロンがあり、路地に面した入り口側には縁側のある子どもたちの遊び場。2階への階段に面しては本棚が設置されている。
2階には山王おとなセンターの作業室があり、加えて事務所とその時々に合わせて変化する曖昧なリビング空間、ゆっくり過ごせる個室など。取材におじゃましたときにはまだ建物がようやく出来上がったところで開設前。これから縁側や壁の掲示板スペースなどを作り、子どもたちが各部屋の看板を作るなどするというタイミングだった。
「事務室、個室、おとなセンターの看板を大人と一緒に作ることになっています。いろいろな大人と関わり、職業体験をすることで自身の人生の選択肢を増やしてもらいたいと考えています」
大工さんと会ったら「大工さん、かっこいい」、農家さんと会ったら「農家になりたい」と子どもはその時々でいろいろなことを言うが、そうやって世の中にはいろいろな仕事、いろいろな人がいることを知っていくわけである。
日常的にはこどもセンターは宿題もするものの、基本は遊びの場で日替わりでいろいろなプログラムがある。ボール遊びをする日もあれば、みんなで今日は何をして遊ぶかを決めて遊ぶ日もある。子どもだけでなく、中高生や大人たちも交じって一緒に風船バレーをしたり、王様陣取り、ドカン(地面に円を書いてそれを起点にしてやるかくれんぼ)、ダブルドッジなどと遊びの種類はさまざまあるそうで、聞いているととても楽しそう。それほど広い空間ではないが、路地はちょうどよい外遊びの場となっているようだ。
みんなで一緒に遊ぶ時間だとしても、切り替えができなかったり、うまく入れない子もいる。そんなときには仲間が一緒に参加することを促したり、遊びに入れるまで待ってみたり、ちょっと遊んではちょっと休憩したり。それぞれが自分のやり方で参加して、それでよしという場なのだ。
中高生以上の子どもたちは20時まで過ごせることになっており、それぞれにゲームをしながらおしゃべりをして過ごすことも多いとか。その昔はカードゲームだったことを考えると時代は変わるものである。ただし、学童の子どもたちがいる間は携帯は禁止とされているそうだ。
これからの課題はどう運営していくか
利用する子どもの数は日によって異なり、2~3人の日もあれば、お泊まり会などで30人くらいが集まることも。人数がどうのというより、一人でも困っている子どもがいるなら、そこに居場所は必要と田村さん。
喧嘩をして「もう来ない」と言いながら翌日も顔を出す子ども、学校帰りに遊んでストレスを発散してから家に帰る子ども、とにかく誰かと一緒にいたい子ども、それぞれにいろいろな事情があり、どんな事情があっても受け入れてくれる、それがこどもセンターというわけだが、経済的に大変な家庭もあることを考慮、利用料は原則無料。おやつ代(1回50円)、給食代(1食300円)、その他教材費などプログラムにかかる費用は実費負担となっているが、やりくりは大変だ。
「コロナが流行し、こども食堂が増えた頃から支援団体からの食料提供があり、とても助かっていますが、基本、寄付がなければ成り立ちません。学童保育の申請はしていますが、年々要件が厳しくなっています。オープンしている間は資格のある人が常にいなくてはいけないのですが、こどもセンターでは私ともう一人だけなので、常にどちらかがいなくてはいけない状態。これから融資の返済もありますし、路地の反対側にある空き家を活用できたらとも思っています。今後の課題はどう運営していくかです」
路地を挟んだお地蔵さんのある長屋の1軒が空き家になっており、そこを広場にできないかというのである。そうすれば遊び場が広げられる。
このあたりはもともと、子どものいるファミリー世帯も多かったエリアで、現在はそれが高齢化あるいは空き家化。阿倍野やなんばなどに近い立地のため、民泊に利用されている建物もある。さらに単身者、海外の人たちなども入ってきている。お向かいの空き家が使えるようになるかどうかはまだこれから。
日々の運営、遊び場の拡大、課題は山積しているが、地元や周囲はもちろん、日本全国に応援している人も多い。もし、これを読んで関心を持った方にもぜひ、応援をお願いしたい。
おっちゃんと子どもが共存する、懐の深いまちへ
最後にこどもセンターだけでなく、西成区全体もここ20年、子育て世代に選ばれるまちを目指して地道に変化してきたことをお伝えしたい。
大阪市では2012年から市長の発案で西成特区構想が進んでいる。同年10月には「西成特区構想有識者座談会報告書」での8分野56項目の提言が出され、翌2013年には西成区区政会議 西成特区構想部会(西成特区構想エリアマネジメント協議会)が設置されており、実際の活動もここからスタート。まちの雰囲気は確実に変わってきている。
「20年前には小学校の周りに違法屋台が集まり、公園はフェンスで閉鎖された状態でしたが、露店経営者の実態調査等を通じて府警による取り締まりを支援した結果、違法露店は激減。公園も子どもたちが使えるようになりました。随所に放置されていた迷惑駐輪も約48%減少、ゴミの不法投棄も約54%減少。かつてはバラックだらけだった公園の野宿生活者の人たちとも何度も話し合いを重ねて行先を探して少しずつ撤去、今ではほとんどなくなりました」と近畿大学建築学部准教授であいりん地域まちづくり会議座長の寺川政司さん。
注目したいのは「おっちゃんたちのサポートをしつつ、子どもの声が聞こえてくるまちに」という多様性、対話を重んじたやり方。都合の悪い人たちを排除するのではなく、相手を尊重し、共存しようというのである。
この地域は下町で他人に親切、言葉を変えればお節介な人が多い土地柄と寺川さん。「この地域のエリアブランディングとして『来たらだいたいなんとかなる』という言葉が使われていますが、面倒見がいい人が多いからここに来たら仕事も住まいもなんとかなる。高齢化が進んで最近は福祉のまちと言われていますが、それも面倒見のよさから。チャレンジもトライアンドエラーもしやすいまちであり、そのおおらかさを武器にして、懐の深い、多くの人に住みやすいまちを目指したいと考えています」
それにあたり、2023年度には第三期として4つの総論と16の戦略が提言されたが、そのうちには子どもの居場所づくりや学習支援なども含まれており、こどもセンターはまさにそうした場所。こどもセンターの動向と同時に西成区全体のこれからにも注視したい。
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