スフィア基準が生まれた背景と主な指標
スフィア基準とは、災害や紛争の被災者が尊厳ある生活を営むために設けられた人道支援の国際基準のことで、正式名称は『人道憲章と人道支援に関する最低基準』という。
この基準が生まれた背景には、1994年のルワンダ虐殺という痛ましい歴史がある。民族間の争いで80万人から100万人が殺害され、多くの人々が周辺諸国に脱出した。しかし、世界中から支援の手が差し伸べられた難民キャンプで、赤痢やコレラなどの予防できたであろう感染症により約3万人が死亡する事態が発生したのだ。
助かったはずの命が失われたこの悲劇を受け、各国政府やNGO関係者が支援活動のプロセスを3年間にわたって検証した。そして、1997年に国際NGOと国際赤十字・赤新月運動が開始したスフィアプロジェクトによりスフィア基準が策定された。
スフィア基準では、次の2つの基本理念を掲げている。
・被災者には尊厳ある生活を営む権利があり、援助を受ける権利がある
・災害や紛争による苦痛を軽減するために実行可能なあらゆる手段が尽くされるべきである
そのうえで「給水・衛生および衛生促進」「食料安全保障および栄養」「避難所および避難先の居住地」「保健医療」の4つの分野で最低基準を定めている。それぞれの主な指標は以下のとおりだ。
●給水・衛生分野
・給水量は1人1日最低15リットル
・水源までの距離は500メートル未満
・蛇口1つあたりの最大利用者数250人
・トイレは50人に1基(女性用トイレは男性用の3倍)
●食料・栄養分野
・必要な栄養価を満たす食料の確保
・調理に必要な燃料や器具の提供
●避難所・居住地分野
・避難所の居住スペースは1人あたり最低3.5平方メートル(畳約2畳分)
・性的搾取や性的暴力を防ぐための特別対策
・家庭内暴力や児童虐待への対応体制
●保健医療分野
・基本的な医療サービスの提供
・予防接種や感染症対策
参考:「スフィアハンドブック 人道憲章と人道支援における最低基準」
上記の指標は、被災者の基本的なニーズを満たし、人間としての尊厳を保つために必要な最低限の条件を明確化したものだ。
ただし、これらの指標は「マニュアル」ではなく、あくまで「ガイドライン」として機能している。現場の状況は千差万別であるため、気候や文化的背景、地域の対応能力に応じて柔軟に適用されるべきなのだ。つまり、スフィア基準は支援者が「対応は正しかったのか」と悩む際の判断基準としても活用されている。
そして、日本の避難所運営においても、この国際基準を参考に質の向上が求められている。
日本の避難所運営の現状
日本の避難所の現状は、1995年の阪神淡路大震災から30年が経過したにもかかわらず、根本的な問題が解決されていない状況にある。2024年1月の能登半島地震では、最大約1,300か所の避難所に約52,000人が避難したが、避難所での雑魚寝を余儀なくされるという、阪神大震災の時と変わらない現状も見られた。
近年では段ボールベッドの導入が進んでいるものの、災害発生直後は避難所が過密になり、体育館で仕切りのない状態で雑魚寝する状態が各地で常態化している。
衛生面では、断水により水洗トイレが使用できず、不衛生な状態が健康悪化を招いている。避難所の中には、新型コロナやインフルエンザ、ノロウイルスなどの感染症がまん延したところもあった。ラップ式の簡易トイレやトイレカーの派遣により改善が図られているが、十分な数が確保されていない避難所も多い。
運営体制の面では、避難所の運営が自治体任せになっているため、標準化された避難所運営ができていないことが課題だ。
動ける人がいる避難所は運営できているものの、高齢者が多く、動ける人が少ないところではうまく運営できず、避難所ごとに差が出てしまう状況が生まれている。設備や食事の格差を「避難所ガチャ」と揶揄する声もSNS上で相次いだ。
このように、日本の避難所は災害のたびに同じ問題を繰り返しており、被災者の尊厳を守る環境の整備が急務となっている。
【先進的な避難所運営】2024年4月3日、台湾東部沖を震源とする地震の避難所の様子
先進的な避難所運営の一つとして、2024年4月3日に発生した台湾東部沖地震の避難所の様子を見てみよう。
まずはそのスピード感である。台湾東部沖地震では、震災が発生してから数時間で質の高い避難所が開設された。花蓮市では発生1時間で市職員と支援団体を結ぶSNSグループが立ち上がり、2時間でテント設営、3時間で避難者の受け入れ、4時間で主要設備が整備された避難所が6か所も開設されたのだ。
充実した避難所の設備にも注目が集まっている。ある避難所では、41個の個室テントが設置され、テント1つにつきベッドが2〜3個配備された。屋外グラウンドには、余震を恐れて屋内で眠るのが怖い人用のテントが34個も用意された。
さらに、温度調節が可能なシャワー用のテント、無料Wi-Fiや携帯電話の充電ステーション、マッサージサービスや子ども向けビデオゲームまで用意され、被災者の心身のケアに配慮した避難所環境が整えられた。
このように迅速な対応ができたのは、行政主導ではなく、自治体と民間団体でするべき支援を分担する仕組みを作ったことにある。自治体やボランティア団体で支援内容が重ならないよう事前に話し合い、災害時にはそれぞれの得意分野に特化して活動したのだ。
例えば、全国規模で支援活動を行っている団体はテントや毛布、ベッドを準備して避難所の設営を担当した。一方で、福祉関係の支援団体は高齢者や子どもの支援を担当するといった具合である。
台湾は日本と同じ地震大国であるが、日本の東日本大震災や熊本地震の避難所運営を研究し、良い部分を取り入れてきたのだ。その結果、日本では同じような環境を整えるのに震災が発生してから2〜3週間以上かかるのに対し、台湾は2時間で準備し3時間で受け入れを開始している。
避難所運営を自治体任せにするのではなく「官民同時並行」で動く仕組みを、次は日本が台湾から学ぶべきではないだろうか。
避難所の現状を受けて国も動き始めた
昨今の避難所の現状を受けて国も動き始めている。
内閣府は全国の自治体が実践した避難所の先進事例を収集し、2025年3月に「避難所における生活環境の確保に向けた取組事例集」を公表した。この事例集は、災害対策基本法の改正により市町村に「良好な生活環境を確保した避難所運営」が努力義務となったことを受け、全国1,313市区町村を対象とした調査結果をもとに作成されている。
参考:厚生労働省「内閣府における被災者支援の実施状況」9P
事例集では、体制整備やトイレ環境の整備、食事の確保や寝床・プライバシー確保など11のテーマで29の先進事例を紹介している。具体的には、愛媛県の避難所運営マニュアルの策定啓発や、宮崎県都城市のQRコードを活用した避難者情報管理、兵庫県南あわじ市・愛媛県宇和島市・長崎県島原市のトイレカー共同運用協定の締結、熊本県益城町の飲食店組合との炊き出し体制確保などが掲載されている。
参考:内閣府「避難所における生活環境の確保に向けた取組事例集」
さらに、2024年12月改訂の避難所運営ガイドラインでは、スフィア基準を参考にした「1人あたり3.5平方メートルの居住スペース」や「50人に1基のトイレ」などの具体的な指標を明記し、キッチンカーの活用やベッドの備蓄も促している。
参考:内閣府「自治体向けの避難所に関する取組指針・ガイドラインの改定について(令和6年12月13日)」
また、政府は今後災害が起きて避難所が設けられた場合、48時間以内にスフィア基準を満たす避難所の環境整備を目標に掲げ、自治体に必要な支援を行っていく考えを示している。このように、行政は従来の「避難所だから仕方ない」という考えから脱却し、国際基準に基づいた質の高い避難所運営の実現に向けて本格的に動き始めている。
自助によってスフィア基準を上回る選択肢づくりを
ここまで、スフィア基準の概要や基準を満たすための取り組みを紹介してきたが、被災者全体の生活環境を向上させるためには、個人が自助の幅を拡げることが重要ではないだろうか。自助の幅が広がれば、スフィア基準を上回る環境で避難所生活が送れるだろう。
個人レベルでの備えとしては、数日分の食糧と水の備蓄、簡易トイレやカセットコンロ、懐中電灯、ラジオなどを常備することを心がけよう。三重県名張市の中央ゆめづくり協議会では、ローリングストック法を推奨し、普段使いの食品を多めに備蓄して期限切れを防ぎながら災害に備える取り組みを実施している。
※参考:総務省消防庁「防災リーダーの役割/住民(構成員)の自助意識を高めるには」
避難先の選択肢を拡大することも重要である。親戚や友人宅、職場や車中泊が可能な場所など、避難所以外の選択肢を事前に確保し、複数のルートで連絡を取れる体制を構築しよう。簡易テントや寝袋、ポータブル電源などの個人用防災グッズを準備すれば、避難所でも最低限のプライバシーと快適性を自力で確保できる。
地域レベルでは、町内会やマンション管理組合で防災備蓄を共同購入し、簡易ベッドやパーティション、発電機などを地域で共有する仕組みづくりが有効である。応急手当や調理技術など災害時に役立つ実用的なスキルを身につければ、周囲へ支援する力も備わるだろう。家族で日頃から災害時の行動計画を話し合い、あらゆるシナリオを想定しておくのもおすすめだ。
自助の幅が拡がれば、避難所の負担が軽減され、本当に支援が必要な人にスフィア水準を確実に届けられる。避難所運営の改善と並行して、周りと協力しながら自らの力で避難所の質を向上させる取り組みが、災害に強い地域づくりにつながるだろう。
■参考資料
スフィアハンドブック
https://jqan.info/wpJQ/wp-content/uploads/2019/10/spherehandbook2018_jpn_web.pdf










