「三岸アトリエ」設計者の山脇巌は「バウハウス」に留学した数少ない日本人

本連載でこれまでちらちらと触れてきた「バウハウス」。今回取り上げる「三岸(みぎし)アトリエ」は、「これぞバウハウス!」と言いたくなるデザインの建物だ。ともに画家である三岸好太郎・節子夫妻のアトリエとして、1934年(昭和9年)に建てられた。今年、築90年となる。

南側外観。閑静な住宅街にあり、知っていれば「確かにバウハウス!」と思うが、知らなければ素通りしてしまう(写真:宮沢洋)南側外観。閑静な住宅街にあり、知っていれば「確かにバウハウス!」と思うが、知らなければ素通りしてしまう(写真:宮沢洋)

設計したのは建築家の山脇巌だ。戦前に、ドイツのバウハウスに留学した数少ない日本人の1人。建築家のミース・ファン・デル・ローエや画家のカンデンスキーらに直接学んだ。バウハウス風ではなく、正統派バウハウスの人なのだ。

山脇巌は1898年長崎県生まれ(旧姓は藤田)。1926年に、東京美術学校図案科第二部(建築科)卒業後、横河工務所に入所。1928年、裏千家の山脇道子と結婚し、山脇家の養子となる。1930年、道子とともにバウハウスに留学。ナチズムの台頭によりバウハウスの閉鎖が決定したため、1932年帰国。「三岸アトリエ」は帰国の2年後、山脇が36歳のときに完成した。

依頼主は札幌出身の画家、三岸好太郎(1903~1934年)。大正から昭和初期の日本近代洋画史に鮮烈な光を放った。31歳で早世したが、札幌市に道立の美術館がつくられるほどの大画家だ。三岸と山脇は、山脇が学生の頃からの友人で(歳は山脇が5つ上)、山脇帰国後の1934年3月ごろから設計を開始するも、三岸は胃潰瘍を悪化させ同年7月に急逝。完成を見ることはできなかった。主を失ったアトリエは、同年10月末に竣工し、翌月に開かれた「三岸好太郎遺作展」の会場となった。

南側外観。閑静な住宅街にあり、知っていれば「確かにバウハウス!」と思うが、知らなければ素通りしてしまう(写真:宮沢洋)(イラスト:宮沢洋)

多くの人が「現存しない」と思っていた「三岸アトリエ」

ここでいったん、「バウハウスとは何か」について。
バウハウスは1919年にドイツで創設された芸術学校で、堅く言うと、「個人の芸術性と大量生産・機能性を融合させ、あらゆる芸術的媒体を1つの統一的なアプローチで融合させることを目指した」といった説明になる。建築分野に限定してざっくり言うと、「様式」からの脱却、つまり“お決まりの装飾”を排除したスッキリデザインを目指した。

筆者もこの三岸アトリエを写真では見たことがあった。バウハウスと日本の関係について解説する記事には、白い豆腐のようなこの住宅のモノクロ写真がしばしば掲載されている。筆者も含め、「現存しない」と思っていた人が多いと思う。2014年に国の登録有形文化財となり、「アトリエM」として撮影などに利用されるようになったことを知り、「残っていたのか!」と驚いた。

(イラスト:宮沢洋)(イラスト:宮沢洋)

この家を守る決断をした山本愛子さん(三岸夫妻の孫)の話は、このサイトでも2017年にリポートしている。その苦労談はそちらの記事を読んでいただくとして、本連載で書きたいのは、「なぜ多くの人が現存しないと思っていたのか」と、「なぜ残ったのか」だ。

(イラスト:宮沢洋)1階のアトリエ。画家のアトリエは光の安定した北側採光が良いとされるが、このアトリエは南側の大開口からも光が入る(写真:宮沢洋)

本家・バウハウスの“豆腐住宅”は木造ではない

まずは、現存しないと思っていた理由から。それはモノクロ写真の説明文に必ず「木造」と書かれていたからだ。もしもあなたが、これから木造住宅を建てようと思っているならば、こんなふうに「屋根がフラット」で「軒の出が全くない」住宅は建ててはいけない。いつか必ず雨が漏る。以前に取り上げた「本野精吾邸」は、揺れの少ないコンクリートブロック造で、かつ軒の出が深いから100年も残っているのである。

本家・バウハウスの住宅は、見た目は“豆腐”でも、木造ではない。バウハウスの創設者であり、建築部門の教育を主導したのはヴァルター・グロピウス(1883~1969年)。豆腐のようなスッキリ建築のイメージを世界に流布したのはこの人で、今で言うプレハブ住宅の先駆者でもある。

グロピウスは前述のとおり、「芸術性と大量生産・機能性の融合」を目指した。バウハウスで教べんを執りつつ、1923年、本格的なプレハブ住宅の実験をスタートさせる。

その構造は乾式組立構造と呼ばれるもので、現在の鉄骨系プレハブ住宅の起源だ。鉄骨の柱梁に大きな壁材を張り付けてつくる。壁材としてグロピウスが注目したのが、軽量で断熱性の高い「ガスコンクリート」。炭素が結晶化すると硬いダイヤモンドになるように、コンクリートの細胞が気泡を含むと規則正しく並んだ結晶体となり、コンクリート自体の強度が増す。現在のALC(軽量気泡コンクリート)の原型といわれる素材だ。そういうつくり方だと知ると、豆腐みたいなデザインにも納得がいく。

(イラスト:宮沢洋)(イラスト:宮沢洋)

グロピウスの「鉄骨造+軽量コンクリートの壁」に対し、この連載の初回で取り上げたル・コルビュジエは「現場打ちの鉄筋コンクリート造」にこだわり、こちらも豆腐のような住宅を次々に実現した。いずれにしても、構造はガッチリだ。

それに対して、日本の木造は揺れる。もちろん揺れても壊れないようにつくられてはいるが、揺れが繰り返されると雨の浸入路を生みやすい。材料自体の経年劣化も進む。そして、木造は細かい部材が多いため、そもそもウイークポイントの数が多い。

雨漏り対策のため、屋根の上に屋根というデザイン

台風の多い日本で、木造で、こんなデザインで、なぜ90年も残っているのか。今回、現地を訪れていくつかの謎が解けた。

1つは屋根。上から見下ろすと、緩やかな寄棟の屋根が架かっていた。屋根はほんの少しだけ、外壁の外側に張り出している。竣工当時の外観写真や模型写真を見ると全く軒の出がない。屋根はほとんどフラットで、内樋(壁の内側に設けた見えない樋)で雨を排出していたと思われる。この寄棟屋根は、竣工後にひどい雨漏りがあって、全体を覆うようにかぶせたのだろう。

北側から見下ろす。元は陸屋根(水平の屋根)だったと思われるが、全体を覆う寄棟屋根が架かっている。手前(北)側は増築部分(写真:宮沢洋)北側から見下ろす。元は陸屋根(水平の屋根)だったと思われるが、全体を覆う寄棟屋根が架かっている。手前(北)側は増築部分(写真:宮沢洋)

三岸好太郎の没後に完成したこの建物は、妻で画家の三岸節子のアトリエとなった。節子は1968年に新たな創作の場を求めてフランスへ移住するまで、30年以上ここで絵を描いた。その間、1958年に改修工事を行った記録が残る。フランスに発つ際、娘に「このアトリエを大切に守ってほしい」と託したという。その言葉から察するに、節子は、屋根の上に見えない屋根を架けてでも、この四角いデザインを守りたかったのだろう。

デザインを主導したのは施主の三岸好太郎だった

謎を解く鍵のもう1つは、三岸好太郎によるアトリエのスケッチだ。孫で現所有者の山本愛子さんに教えてもらった。設計初期に描かれたその絵を見ると、なんと、外観の形がほとんど実際と同じなのだ。

筆者はこれまで、「バウハウス帰りの山脇巌がバウハウス流を実現したくて、雨漏りのことなどおかまいなしに設計したのだろう」と思っていた。そんなふうに思っていたことを山脇に謝りたい。

(イラスト:宮沢洋)(イラスト:宮沢洋)

このデザインを主導したのは施主である三岸好太郎だったのだ。三岸は生前、美術雑誌の取材に、「今度この空き地にアトリエを建てやうと思ってゐます。ガラス建築をやらうと思って山脇君に設計を頼んだんだ」(『アトリエ』昭和9年4月号)と語っている。バウハウスに興味を持っていた三岸にとって、バウハウス帰りの山脇は理想のアトリエを実現するのにうってつけだったのだ。

画家のアトリエにはタブーと思われる南側のガラス面も、また、舞台演出のようなスパイラル状の階段も、三岸の要望だったという。会うたびに加わる三岸の要望に、山脇は何度も図面を描き直した。

亡き夫の思いが詰まった住宅を守り続けた妻の節子

山脇は後年、こう述懐している。「元気でねばりのある三岸氏の前にいると、会う度に面白くなっていく。・・・・・画室はとうとうまにあわなかった。思いつきのたびに折角の計画をこわす三岸氏が悪いのか、変更の度毎に延び延びになってつい図面を無精した自分の罪か。画室は遂に見て貰えなかった」(山脇の著作『欅』より)。

三岸が大画家だと言っても、30代そこそこでそんなにお金があったはずがない。山脇は、コストの安い木造で、どうしたら三岸が望むシャープなデザインが実現できるのか、あるいは使い勝手や耐久性が確保できるのか、建築家として苦悩したに違いない。

設計のやりとりの中で、三岸の体調の悪さにも気づいていたはずだ。山脇は、機能面には多少目をつぶってでも、三岸の思いを早く実現することを選んだのだろう。結果として、妻の節子は、亡き夫の思いが詰まったこの建物を守り続けた。これも1つの建築家の愛ではないか。

南側のガラス面の建て具は当初、木製だったが、現在はアルミサッシに替わっている(写真:宮沢洋)南側のガラス面の建て具は当初、木製だったが、現在はアルミサッシに替わっている(写真:宮沢洋)

■概要データ
三岸アトリエ
所在地:東京都中野区上鷺宮
設計:山脇巌
階数:地上2階
構造:木造、およびコンクリートブロック(平屋部)
建築面積:88m2
竣工年:1934年(昭和9年)/1958年に改修
レンタルスタジオ「アトリエM」の利用詳細→ https://www.leia.biz/
建物の見学も随時受け付けている。問い合わせ→info@leia.biz

■参考文献
「バウハウスへの想い デザインからアトリエまで」(北海道立三岸好太郎美術館、1990年)
「中野を語る建物たち」(中野区教育委員会、2011年)
SPIRIT×DESIGN「2021年の都市型住宅考 住宅のプロダクト化はバウハウスに始まった」(Asahi Kasei Homes Corporation)
https://www.asahi-kasei.co.jp/hebel/spirit_design/study/15-toshi01.html

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