日本の洋画史にその名を残す三岸好太郎・節子夫妻のアトリエ

ここ最近、古い建物が取り壊されるというニュースに接することが多いのだが、壊されずに残り、再生される事例も増え続けている。地域の公共施設としての活用や、カフェ・レストラン、店舗に改修されるケースなど再生の形はさまざま。今回は、歴史的建造物の所有者自身が取り組む活用と、守り続けていく思いを紹介したいと思う。

取材に応じてくれたのは、国の登録有形文化財「三岸アトリエ」(東京都中野区・鷺宮)を守る山本愛子さん。
三岸アトリエは、山本さんの祖父母である画家の三岸好太郎・節子夫妻のアトリエとして1934年に建てられた。

三岸好太郎(1903~1934)は大正末から昭和初期にかけての洋画界で鬼才といわれた画家。この第2アトリエは好太郎がデザインをし、ドイツに留学してバウハウス(美術・建築の総合教育機関)で学んだ山脇巌が設計した。好太郎は病に倒れ、竣工を待たずに亡くなってしまったのだが、その3ヶ月後の1934年10月、妻である画家・三岸節子(1905~1999)が完成させ、その後、住居兼アトリエとして使用していたという。節子は3人の子どもを育てながらここで創作に打ち込み、洋画家としての道を切り拓いていった。当時はまだ女性が職業画家として活躍することは厳しい時代だったが、女流画家協会の創立に発起人の一人として参加するなど、画壇における女性の地位向上に尽力したことでも功績を残した。ちなみに女性洋画家で初めての文化功労者となったのは、三岸節子である。

三岸好太郎には出身地である札幌市に北海道立三岸好太郎美術館が、節子も生まれ故郷の愛知県一宮市に一宮市三岸節子記念美術館がそれぞれ設けられている。

このように日本の洋画界に大きな足跡を残す2人の画家をしのぶ建造物として、また戦前の木造モダ二ズム建築として、「三岸アトリエ」は大変貴重である。

1934年、竣工時の三岸アトリエの外観(山本愛子さん提供)1934年、竣工時の三岸アトリエの外観(山本愛子さん提供)

空き家になったアトリエ。「取り壊すしかない」と思っていた時期も

三岸アトリエの中庭にて山本愛子さんと母・向坂陽子さん三岸アトリエの中庭にて山本愛子さんと母・向坂陽子さん

「ここ鷺宮は、今は住宅が建ち並ぶ街になっていますが、1960年代頃までは武蔵野の農村でした。祖父の三岸好太郎はかやぶき屋根の農家が見えるこの場所が気に入って、最初のアトリエ兼住まい(第1アトリエ)を構えたのだそうです。1929年のことです。その後、同じ敷地に建てられたのがこの三岸アトリエです。白くて四角い外観の建物で、当時農村だったこの地域にあっては異色だったと思います。近所の方たちからは『豆腐の家』と呼ばれていたと、母(三岸夫妻の長女)から聞きました」と、山本さん。

「3面をガラスにしたい」という好太郎の希望もあって、「豆腐の家」は大きな窓ガラスが特徴的な建物に仕上げられたのだが、第2次世界大戦の空襲で窓ガラスはすべて割れてしまった。雨風をしのぐために三岸節子が窓枠に貼ったのは、油絵を描くキャンバスだったという。

戦後、ガラス窓は修復され、床の張り替えなどの増改築が行なわれた。だが、1968年、節子は新たな創作の場を求めてフランスへ移住。一緒に住んでいた長男・黄太郎一家を伴っての渡仏だった。

フランスへ旅立つ際、節子は長女であり、山本さんの母である向坂陽子さんにこう言い残した。「このアトリエを大切に守ってほしい」と。

「当時、私たち一家は練馬区に住んでいましたが、祖母の言葉を受けてこの場所に引っ越してきました。私が中学生の頃です。私たちが住んだのはアトリエの裏手にある、第1アトリエ跡地に建ったマンション。祖母・節子が暮らしたアトリエの建物は、母が洋裁をするときに一部の部屋を使っていた程度でほとんど使用されることはなく、空き家になってしまったのです」。

その後も鷺宮のアトリエには人の出入りがなく、帰国した節子が1999年に神奈川県大磯の山荘で亡くなったあともずっと空き家の状態が続いた。

アトリエの建つ土地が借地だったこともあり、「近い将来には更地にして地主様にお返しするものと思っていたので、いずれは取り壊すことになるだろうと、覚悟を決めていました」と、山本さんは振り返る。

区の教育委員会による歴史歴建造物の調査を機に保存・活用を決意

1934年11月、このアトリエで開催された三岸好太郎遺作展の様子(山本愛子さん提供)

1934年11月、このアトリエで開催された三岸好太郎遺作展の様子(山本愛子さん提供)

そんな山本さんが、アトリエの保存・活用へと行動を起こすきっかけになったのは、2009年の中野区教育委員会による歴史的建造物調査だった。教育委員会から委託を受けた建築士が、アトリエへ調査に訪れたのだ。そして、「貴重な文化財だから絶対に壊さないでください!」「修復して保存しましょう!」と言われ、最初は戸惑いを感じたという山本さん。

「実は私、不動産デベロッパーの会社でWEB担当の業務に就いていました。中野区教育委員会の調査があったときは、母の介護のため退職したばかりの頃だったのです。長らく不動産開発の業界に身を置いていたこともあって、古い建物は取り壊されて新しい建物に建て替えられるという、そういう考え方がしみついていたのかもしれません」。

現在のアトリエの建物は1階に作業室と画室があり、2階には書斎兼書庫である和室や、テラスが配されている。玄関に造られているのは、三岸節子が増築した南欧風の暖炉のある部屋。なかでも圧巻なのは、やはり画室だろう。天井まで吹き抜けになっていてらせん階段が設けられているが、竣工当時のままの姿だという。そんな建造物をみて、区の歴史的建造物調査にあたった建築士は、「戦前の木造モダニズムの最先端を垣間見ることができる希少な建造物」と評価し、山本さんにアトリエの保存を強くすすめたのだった。

「恥ずかしながら、私は設計した山脇巌のことも知らなかったんですが、この調査のおかげで建築物としての価値も知りました。また、母にとっては思い出の詰まった実家だし、私にとっても愛着のある『おばあちゃんの家』であることも思い起こされました。幼い頃は母に連れられてよく遊びにきていたんです。私の思い出の中にあるおばあちゃん、三岸節子はいつも絵を描いていました。でも一緒にお風呂に入ったりしたときもありましたね…」。

古いアトリエの建物には、何物にも代えがたい価値があることに気づかされた山本さん。広く建物全般の保存にも興味をもつようになり、中野区教育委員会の調査を担当した建築士を通じて、歴史的建造物の保存活動を行なう専門家や団体とも交流をもつようになった。そうした時間を重ねるなかで、歴史的建造物は地域の街並みや人の暮らしの歴史を伝える財産であると知った。イベントスペースやカフェ、資料館などさまざまな形で有効利用されている事例をみる機会が増え、「祖父母のアトリエを残したい」という思いが強くなっていく。

趣味の教室やイベント、写真スタジオなど幅広く活用

そうして山本さんはアトリエを修復して保存し、活用していこうと決心。2010年7月、長らく空き家だったアトリエの一般公開に踏み切った。始めたのは、「アトカル」事業。「建物の雰囲気を活かす取り組みを」ということで、「アトリエでカルチャー」の意味を込めて山本さんが考えた造語だ。友人を講師に招いてのプリザーブドフラワー教室や水彩スケッチ画、トールペイントなど趣味の教室を開催したり、講演会や落語の会、ギャラリーなど幅広く活用されている。

中野区社会福祉協議会が主催する「まちなかサロン」にも協力。これは区民の自宅や区民活動センターなどを会場にし、区民同士が気軽に交流できるきっかけづくりをめざすという中野社協の取り組みで、その会場の1つとしてこのアトリエが参加しており、毎月第4木曜日にアトリエを無料で開放している(13時~15時、予約不要)。

また、前述のように土地は長期間、借地だったのだが、「2011年に地主様のご厚意により底地を購入させていただきました」と山本さん。そのために20年のローンを組んだという。

2015年には知人の紹介でレンタルスペースのサイトに登録し、撮影スタジオとしてもレンタルを開始。雑誌やテレビ番組、アパレルブランドのカタログ、コスプレイヤーの撮影など幅広く利用されるようになったそうだ。

見学も随時受け付けているので、歴史的建造物の愛好家や、三岸好太郎・三岸節子のファンも訪れる。

閉ざされた空き家から地域に開放されたアトリエへ。
「かつては訪れる人もなく、どことなく冷たい感じの建物に思えたのが、いろいろな人が来てくださるようになって、温かい建物になったと思います」と語る山本さん。

左)現在の三岸アトリエ外観。住宅街のなかにたたずんでいる</BR>右上・下)現在のアトリエの画室。三岸アトリエは建物外観の造形に対しての登録有形文化財認定だが、地元・中野区の学芸員から「区の貴重な文化財でもあるので、内観も変えずに保存してほしい」と要請されたという左)現在の三岸アトリエ外観。住宅街のなかにたたずんでいる
右上・下)現在のアトリエの画室。三岸アトリエは建物外観の造形に対しての登録有形文化財認定だが、地元・中野区の学芸員から「区の貴重な文化財でもあるので、内観も変えずに保存してほしい」と要請されたという

歴史的建造物の所有者と行政とが連携していく仕組みを作りたい

戦前に玄関として使っていた場所。「この玄関ドアの赤い色は、母の記憶を頼りに再現しました。この色は、祖父・三岸好太郎が人生最後に発表したエッチング集の表紙の色でもあるのだそうです」と、山本さん。ちなみに色を再現する以前の古いドアも保存していて、ネジで元に戻せるようになっているという戦前に玄関として使っていた場所。「この玄関ドアの赤い色は、母の記憶を頼りに再現しました。この色は、祖父・三岸好太郎が人生最後に発表したエッチング集の表紙の色でもあるのだそうです」と、山本さん。ちなみに色を再現する以前の古いドアも保存していて、ネジで元に戻せるようになっているという

2014年3月には、区内の歴史的建造物の保存活動に取り組む市民団体「中野たてもの応援団」からのサポートもあり、国の登録有形文化財の認定を受けることができた。

この登録有形文化財になると、建物を移築するなど大々的な変更がある場合などには文化庁への届出が必要になるが、「国の文化財」という評価が得られていることは、多くの人に建物の価値を知ってもらうことにもつながりやすいだろう。加えて、建造物の所有者にとって、相続税や固定資産税など税制面で優遇措置が受けられることも大きい。

山本さんも、アトリエを保存していくためには、税金面を含め維持・修復費用がかさむという問題を乗り越えていかなければならないと話す。
「築82年のアトリエなので、あちこち、傷んでいます。床の一部がフカフカになって抜け落ちそうになっていたり、天井の一部が損傷してしまっていたり。また、東日本大震災の影響も深刻で、壁にヒビが入ってしまっています」。

修繕の費用はアトカルやイベント、レンタルスペースなどの事業収入を充てているのだが、費用の工面は決して楽ではないようだ。でも、訪れる人たちから「都内にこんな建物が残っているなんて!」「三岸節子の大ファンなのでここに来れてうれしい」などと言葉をかけてもらえるたびに「頑張ってここを残さなければ」と思いを新たにするという。

歴史的建造物は、その所有者だけのものではなく、地域をより魅力的にする宝といえる。しかし、建造物の維持管理という重責を所有者が担うとなると、資金面の問題などの苦労が伴う。
そんな状況にあって、山本さんが積極的にやっていることは、登録文化財や歴史的建造物の所有者同士のネットワークを広げ、互いのつながりを強めること。

「所有者の方とお話すると、みなさん、共通の悩みをお持ちです。雨漏りをどうしようとか、維持修復にお金がかかる、私が死んだらこの家はどうなる…。そういう悩みを共有し、古い建物をどう活用しているのか、情報交換をしています。ただ保存や維持は所有者自身の努力だけでは難しいと感じることもしばしば。自治体とも連携して建物を残していけるような仕組みを作れないものかと模索しています」。

今回の取材を通し、筆者自身、歴史的建造物への興味のフィールドが広がったように思う。

☆取材協力
三岸アトリエ
http://www.leia.biz/atelier/

レンタルスペースアトリエM
http://www.leia.biz/

2017年 01月18日 11時06分