常に「己を捨てる」建築家、堀口捨己(すてみ)
日本の木造の美とモダニズムの美を結び付けて世界に発信したのは、戦後に活躍した丹下健三だと一般的にはいわれている。しかし、丹下よりも20年以上前にそれを高度なレベルで実現し、もしかしたら丹下も参考にしていたのでは、と思われるのが「小出邸」である。堀口捨己(すてみ)の設計で1925年に完成した。
もともとは東京都文京区に建てられたが、1998年、東京都に寄贈されて「江戸東京たてもの園」(東京都小金井市)に移築された。
今回の主役は「堀口捨己」である。「捨己(すてみ)」なんて、親はどうしてそんなひどい名前をつけるのだろうと思ってしまうが、漢文式に帰り点を打てば、「己を捨てる」。古い自分を捨てて、常に新しい自分を求める──。堀口はまさにそんな建築家だった。
「分離派建築会」を立ち上げ、学生時代から名を馳せた堀口
堀口は1895年に岐阜県で生まれた。東京帝国大学建築学科在学中から建築界で広く名を知られていた。というのは、東大の同級生だった石本喜久治や山田守らと1920年に立ち上げた「分離派建築会」の中心メンバーだったからだ。
分離派建築会は「建築は芸術である」という強いメッセージを掲げ、百貨店などで展覧会を開いた。その頃に堀口が提案した建築は、「表現主義」と呼ばれる自由な造形の建築だ。表現主義はその後のモダニズム建築へとつながる。
分離派建築会の活動は当時の建築界のお偉方の反感を買い、堀口は官庁や大手財閥へ就職する道を閉ざされてしまう。そのため戦前は組織に属さず、博覧会の仮設建築や小住宅などを設計。戦後は日本建築や茶室に没頭したり、モダニズムに戻ったりと、常に建築デザインの最先端に挑んだ。明治大学で教え、同大工学部内に建築学科を創設したことでも知られる。1984年に89歳で亡くなった。
オランダで見た最新建築の影響をうける
「小出邸」は分離派建築会での活動で“名前先行”だった堀口の実質的なデビュー作とされている。建築主は実業家の小出収。小出の妻の弟が堀口の友人だった縁で、堀口に住宅の設計を頼んだという。
堀口は前年の1923年夏、新たな建築知識を求めてヨーロッパを視察。特にオランダの「アムステルダム派」に強い影響を受けて帰国した。
アムステルダム派は、1910年代から20年代に、生活と美術の統合を掲げて労働者階級の集合住宅を手掛けた建築家たちを指す。オランダの伝統的な素材であるレンガを生かした伸びやかな曲面や幾何学的造形が特徴だ。
小出邸にもその影響が見てとれる。まず、全体の形が幾何学的。直方体にピラミッド型を突っ込んだ、いかにもな造形だ。玄関ポーチも、幾何学全開。
「小出邸」の室内はモンドリアンの抽象画のよう
それは序の口で、本領発揮はむしろ内部のデザイン。
あらゆる部屋が、縦横のシンプルな直線とカラフルな色の面で構成され、抽象絵画を見るよう。絵の好きな人はきっとこう思う。「これってモンドリアン!」
その直感は正しくて、ピート・モンドリアン(1872~1944年)はオランダ出身の画家で、「デ・ステイル」という芸術活動をリードした。デ・ステイルはロッテルダム派ともいわれ、前述のアムステルダム派と二卵性双生児のような関係だ。堀口はどちらにも影響を受け、いいとこ取りしたのだ。
押し入れに感動する住宅はここだけ?
建物に入ればすぐにわかるが、生活をするうえで無理がない。間取りは、玄関と階段の周りに四角い部屋を並べたごく普通の間取り。ピラミッドの斜め屋根部分は納戸になっている。生活にしわ寄せを与えることなく、四角い部屋の線と面の構成によって、モンドリアンの世界を生み出したのだ。
堀口の愛を強く感じるのは2階の押し入れだ。通常は見られないが、襖を開けると、そこには“棚板アート”が隠されている(公式サイトの360度パノラマビューで見ることができる)。数多くの住宅を見てきたが、押し入れに感動するのはここだけかもしれない。
70年以上にわたって大切に住み継がれる
小出邸は建築主の小出収の没後も子孫が所有し、1996年まで70年以上にわたって大切に住み継がれた。
堀口は出発点の「分離派建築会」が有名であるために“反骨の人”というイメージがつきまとう。もちろんそういう面もあったのだと思うが、この住宅が戦前・戦後と長く住み続けられたのは、堀口が注ぎ込んだ愛の結果であることは間違いない。
■概要データ
小出邸
所在地:東京都小金井市桜町の江戸東京たてもの園内(当初は東京都文京区)
設計:堀口捨己
階数:地上2階
構造:木造
延べ面積:177.27㎡
竣工年:1925年(大正14年)








