「住宅の設計を建築家に依頼する」習慣を日本に広めたコンドル
三重県桑名市の「六華苑」は、大正期の実業家、二代目諸戸(もろと)清六が建てた邸宅と庭園だ。
住宅は重要文化財に指定されており、庭園と併せて一般公開されている。洋館と和館から成り、洋館部分は、教科書でも習う“お雇い外国人”の建築家、ジョサイア・コンドル(1852~1920年)が設計した。
完成は大正2年(1913年)。前回取り上げたル・コルビュジエの「サヴォア邸」(1931年)より18年古い。連載の国内1軒目としてなぜこの住宅を取り上げるかというと、1つにはジョサイア・コンドルという建築家が「個人住宅の設計を建築家に依頼する」習慣を日本に浸透させた人であること。もう1つは、コンドルの住宅の中でも、旧諸戸家住宅は“建築家の愛”を強く感じさせるからだ。
コンドルは巨匠になっても住宅の設計が大好きだった?
コンドルはロンドン大学で学び、ゴシック建築の権威であるウィリアム・バージェスの設計事務所に勤めた。1876年、王立建築学会の若手登竜門の設計コンペで優勝。翌年、日本政府の招聘を受け25歳で来日する。67歳で没するまでに、「鹿鳴館」や「ニコライ堂」など70近くの建築を設計した。そのうち住宅が約半数を占めている。
このことはコンドルの志向性、あるいは人間性を表している。考えてみてほしい。鹿鳴館が完成したのは1883年で、このとき31歳。その若さで国を代表する建築を実現したのだ。ビッグプロジェクトの声掛けはいくらでもあったろう。例えば、コンドルが工部大学校(現・東京大学)で教えた辰野金吾は、銀行や公共建築が多く、個人住宅は数えるほどしか設計していない。
コンドルはおそらく住宅の設計が好きだった。人間が好きだったのかもしれない。東京から遠く離れた桑名の個人住宅、しかも事業を継いだばかりの若き実業家、諸戸清六(当時23歳)の依頼を引き受けた。山林事業で財を成した諸戸家が岩崎家(三菱の創始者)と関係があったことが縁ともいわれるが、当時59歳のコンドルなら、断ることも簡単にできただろう。
「和館併設・別設計」の依頼にも“大人な対応”
引き受けただけではない。やんちゃな依頼主の要望に誠実に応える。何がやんちゃかというと、まず、洋館と和館を一緒につくるという条件。和館は諸戸家専属の大工棟梁、伊藤末次郎の設計だ。長く日本で暮らし、和室だって設計できるコンドル大先生に対して失礼ではないか。
しかし、コンドルは建築家らしい解決を提案する。普通、洋館と和館は、構造を切り離して別棟として建てる。ところがここでは、壁を接して西側に伸びるような構成にした。和館は基本的に平屋だが、洋館と接する部分だけ2階建てになっており、なだらかに低くなる。洋館2階のサンルームからは、和館の屋根が実にきれいに見える。和館を一体化することで、景色に変化をつけたのだ。
「川が見えない!」、土壇場で塔を4階建てに
設計が進むと、依頼主はまた無謀なことを言い出す。それは、シンボルでもある洋館の北の角にある4階建ての塔だ。この塔、実は設計段階では3階建てだった。その図面が残っている。確かに、そちらの方がコンドルらしい落ち着いた外観に思える。
しかし、土壇場で「3階建てだと北側を流れる揖斐川(いびがわ)が見えない」ということになり、塔は4階に変更された。さすがにコンドルも頭にきたのではないかと想像するが、結果的にこの変更は、庭側(南側)から見たときの外観を魅力的にした。洋館が水色であることもあって、塔が頭、和館の平屋が尾の「鳳凰」のように見えるのだ。
塔のガラスに注目
塔は円柱で、下から見上げるとフロア間の白いリング(しっくい装飾)の重なりが空に向かって上昇感を強調する。塔の3方向に設けられたガラス窓に注目してほしい。よく見ると、ガラス自体も曲面だ。大正の初期から曲面ガラス? 後の改修で取り換えたのか? と思ったのだが、これは竣工当時からだという。日本には曲面ガラスがなかったため、輸入して取り付けたのだ。住宅1軒にそこまでするか……。
コンドルの住宅では、東京の「岩崎久弥邸」(1896年)や「古河虎之助邸」(1917年)も現存し、公開されている。それらもゴージャスで素晴らしいが、建築家と依頼主の関係を考えるならこの旧諸戸清六邸は見逃せない。
■概要データ
六華苑(旧諸戸清六邸)洋館
所在地:三重県桑名市大字桑名663-5
設計:ジョサイア・コンドル(和館は伊藤末次郎)
階数:地上2階・塔屋4階建て
構造:木造
延べ面積:441.94m2(和館は368.13m2)
竣工:1913年(大正2年)
■参考文献
『六華苑』(桑名市教育委員会、2001年)
『旧諸戸清六邸(六華苑)整備工事報告書』(桑名市教育委員会、1995年)







