姫路市の都市景観重要建築物等 第1号

建築物は、そのまちの歴史を伝える。これまで歴史的建造物をプライベートや仕事で訪れるたびに実感してきたが、初めて取材で足を運んだ姫路市網干地区で改めて深く感じた。銀行だった建物をレストランに再生した「旧網干銀行 湊倶楽部」、140年続いた金物店を再生した「本と酒 鍛冶六」に続いて、「山本家住宅」を紹介する。

山本家住宅は、網干銀行頭取や第11代網干町長も務めた山本真蔵氏が迎賓館として建てた和洋折衷の3階建て建物と、真蔵氏の祖父が暮らしていた主屋からなる。

古社・古寺も多い歴史ある網干地区。「網干の伝統的な街並みにあって高塀ごしにそびえる黒壁の3階建て望楼は洋風建築を取り入れ、伝統的な白壁の厨子(つし)2階建ての主屋と対比し、強い印象を与えている」とし、1989(平成元)年に「姫路市都市景観重要建築物等」の第1号に指定された。

毎月第1・第3日曜の一般公開時にガイドをしている、あぼし観光ボランティアの会/網干歴史ロマンの会の加藤さんにご案内いただいた。

600坪あまりの敷地面積で、建築面積が約240坪。気になるのは建築にかかった金額…。真蔵氏の日記帳が蔵にしまわれており、専門家に解読してもらったところ、建築費用の記載はなかったが、火災保険の記載があり、保険料が当時のお金で年間240円、現在にすると400万円、補償金が当時6万円、現在では10億円の価値に換算されるとか。「いまこれを建てようと思えば20億円あっても建てられません。またそういう職人さんもいませんと言われました」と加藤さん。これだけのものを建てられる財があった真蔵氏は、修学旅行に行けない子どもたちの費用を立て替えるなど、まちの人々やまちのための慈善事業も積極的に行っていた600坪あまりの敷地面積で、建築面積が約240坪。気になるのは建築にかかった金額…。真蔵氏の日記帳が蔵にしまわれており、専門家に解読してもらったところ、建築費用の記載はなかったが、火災保険の記載があり、保険料が当時のお金で年間240円、現在にすると400万円、補償金が当時6万円、現在では10億円の価値に換算されるとか。「いまこれを建てようと思えば20億円あっても建てられません。またそういう職人さんもいませんと言われました」と加藤さん。これだけのものを建てられる財があった真蔵氏は、修学旅行に行けない子どもたちの費用を立て替えるなど、まちの人々やまちのための慈善事業も積極的に行っていた

京町家の趣が漂う主屋

床の間、違い棚が設えてある主屋1階の座敷床の間、違い棚が設えてある主屋1階の座敷

主屋が建築されたのは1872(明治5)年。関西地区で多く見られた天井の低い2階部分がある厨子2階建てで、東側は切妻、西側は入母屋造りの桟瓦葺きとなっている。

真蔵氏の祖父は、港町である網干地区の漁師の家に次男として生まれ、京都での修業を経てここで呉服商を始めた。長く京都に暮らした影響から、間口が狭く、奥が少し広くなった造りになっている。

実は、江戸時代の網干地区というのは複雑な領地だったという。江戸時代初期は姫路藩領だったが、その後、龍野藩領となり、龍野藩を治めていた京極氏が丸亀藩に国替えになった際、その領地が龍野と比べて1万石少なかったため、龍野の一部、1万石分を丸亀藩の飛び地とすることに。そのため、旧網干銀行のある地域は龍野藩だったが、そこから徒歩7分ほどの山本家住宅は丸亀藩だった。

近くの揖保川には四国からの船が絶えず往来し、商いの相手も四国の人々が主体だった。そんな土地柄で京風の造りというのは珍しかったというが、敷地内の庭石はすべて四国から運ばれたもので、土地の歴史を感じられるものとなっている。

床の間、違い棚が設えてある主屋1階の座敷主屋から中庭を見た風景。この庭の突き当たりに蔵が2つある

呉服商でも卸しだった山本家。そのことが商売用の部屋の外に設けられた格子で分かるようになっていたという。

「京都からいらっしゃったお客さんから、『ここの家、呉服の卸しをやっていたのでは』と言われたんです。京都では格子の形で商売が違うそうなんですね。われわれも呉服商をされているのは知っていたのですが、この格子に意味があるとは知りませんでした」と加藤さん。

糸屋、織屋、呉服屋など、糸・繊維を扱う店に設置されたものは“糸屋格子”と呼ばれた。色味などを見るのに必要な採光ができるように工夫しているのが特徴だ。その中で、太い桟が使われているのは卸し商で、細い木のみだと小売商とされているそうだ。

細やかに考えられた家の造りなのだと分かる。

床の間、違い棚が設えてある主屋1階の座敷呉服の商いをしていた部屋
床の間、違い棚が設えてある主屋1階の座敷呉服の卸し商という意味を持つ格子。この格子が面している道路は、平安時代からあった道。江戸時代には、この道路が、武家屋敷と山本家などの商人を始めとする一般の家との境にもなっていたという

「神戸より西にない建物を」と造られた和洋折衷の迎賓館

続いては、真蔵氏が建てた和洋折衷の館へ。1915~1918(大正4~7)年にかけて工事され、その後2年かけて庭を整備。1920(大正9)年にお披露目をしたという記録が残っているそうだ。主屋とは付属屋(台所)でつながっている。

真蔵氏は、明治時代に輸出が盛んになったマッチ製造に目をつけ、神戸で修業してから19歳で自身の会社を立ち上げた。財を成した真蔵氏は、「神戸より西にない建物を」と要望を出し、高級な素材を用い、さまざまな意匠を凝らしたものに仕上がっている。

正面玄関前に立った瞬間から圧倒されるばかりだ。玄関の屋根は唐破風。こけら葺きから、傷みが早かったため銅板葺きに変えたそうだ。中央部分には家紋である五三の桐の細工がされている日本様式だが、その下は洋風の唐草模様の飾りで、玄関ドアは洋風、壁は真壁仕様で、鹿児島から取り寄せた栂(とが)材の白木横張り。向かって左側の2階屋根は、城などでよく使われている千鳥破風にギリシャから輸入したアンティークの懸魚が。

また、2階と3階の壁は1階と同じく真壁仕様だが黒壁塗り。望楼には灯籠状の棟飾りが付けられている。各窓は、和風の雨戸仕舞、洋風の鎧戸付き両開き窓、そして階段室の上下窓。

和と洋が違和感なくぴったりと融合し、堂々とした雰囲気を醸し出している。

和洋の建築様式が融合した立派な外観。白木の壁はペンキ塗りをせず、そのままの素材が生かされている。基礎設計は神戸の建築会社が担当し、細かなところは真蔵氏と地元の大工や職人が相談しながら仕上げたという和洋の建築様式が融合した立派な外観。白木の壁はペンキ塗りをせず、そのままの素材が生かされている。基礎設計は神戸の建築会社が担当し、細かなところは真蔵氏と地元の大工や職人が相談しながら仕上げたという
和洋の建築様式が融合した立派な外観。白木の壁はペンキ塗りをせず、そのままの素材が生かされている。基礎設計は神戸の建築会社が担当し、細かなところは真蔵氏と地元の大工や職人が相談しながら仕上げたという玄関の靴脱ぎ場は、天然の大理石を使用。この中にアンモナイトの化石が!

外観だけで建築好きの心はくすぐられっぱなしだが、内部も期待以上のものが出迎えてくれる。

大理石の玄関を抜け、右を見ると階段ホールとの仕切り壁の柱が見事なアーチを描いていた。これは職人の手削りによるもの。また壁紙は、玄関側が和紙で、階段ホール側がヨーロッパから輸入したもの。「はがれないようにロープ留めしてあるのも珍しいですね」と加藤さん。

奈良・吉野産の楓の木目を生かした腰板も100年以上経っているとは思えないほどに美しい。そのまま目を移した先の床は、寄木細工。しかも場所によって異なる柄だ。玄関ホールの床は、4つの材木が使われている。四角形の一番外の黒い線に使われているのが黒壇(コクタン)、その内側が欅(ケヤキ)、さらに内側が楢(ナラ)、そして中央がとても珍しい黒柿。「専門家の方が言うには、山に生えている柿の木がだいたい150年から200年ぐらい経つと、五千本か一万本に一本がこう黒くなるとのこと。ほかも黒くはなるけれど、これほどにはならないそうです」

一つ所として手がかかっていないものがない。建築関係者や学芸員ら専門家が見学に来るというのもうなずける。

和洋の建築様式が融合した立派な外観。白木の壁はペンキ塗りをせず、そのままの素材が生かされている。基礎設計は神戸の建築会社が担当し、細かなところは真蔵氏と地元の大工や職人が相談しながら仕上げたという職人技を駆使したアーチ
和洋の建築様式が融合した立派な外観。白木の壁はペンキ塗りをせず、そのままの素材が生かされている。基礎設計は神戸の建築会社が担当し、細かなところは真蔵氏と地元の大工や職人が相談しながら仕上げたという玄関ホールの床。柄を素材の違いで作り出している

豪勢な応接室ほか凝った細工に感嘆

玄関ホール左側に進むと応接室。壁紙やカーテンなどのファブリックもほぼそのままで、歴史を伝える。木製のイスやテーブルもオリジナルに発注したもので、彫刻刀で彫り、種類の異なる木材をはめ込んで模様を作り出している。

また、炭を使う暖炉が設置してあるが、天井の四隅に穴を開け、暖気を天井裏に通して再び下ろすという循環機能が設けられていたのにも驚いた。

応接室の隣が書斎。ここの見どころは机の正面に備えられたステンドグラスだ。東京のメーカーとのコラボによるもので、「まず、直線がなく、曲線ばかりというのが特徴の一つ。そして、絵の具を塗ったような色ガラスを使っていること。メーカーの方がいらっしゃって、当時としたら個人の家で作るのはすごいですよとおっしゃっていました」とのこと。上部に2匹のツバメ、下には秋の七草と、ツバメが南国に帰る頃の風景を描いたもので、加藤さんたちは「ツバメのステンドグラス」と呼んでいる。

家具を含めて大正期の趣をそのまま残す応接室家具を含めて大正期の趣をそのまま残す応接室
家具を含めて大正期の趣をそのまま残す応接室書斎のステンドグラス。机やチェストなど一つ一つの調度品もすばらしい。左のドアはサンルームにつながっており、床には淡路島の淡陶社(現・株式会社Danto Tile)製のタイルが敷かれている

1階の奥に進むと離れ和館へ。その道中も見どころばかりだ。トイレには飾りではなく実用された陶器製スリッパが。廊下の戸は、年代物のゆらぎのあるガラスがそのまま残っていて、美しいデザインの格子窓のところもある。天井を見れば1枚板を削って3枚に分けたものを組み合わせて波打ったような意匠になっているところや、ステンドグラスがはめ込まれているところも。ステンドグラスの上には明かり窓が取り付けられており、午前中だと青っぽく、夕日の差す時間になると赤っぽくと、時間帯で異なる雰囲気を醸し出す。歩みを進めていく客人の目を楽しませたことだろう。

浴室の浴槽は大理石で、上を見上げると唐傘天井に。「湯気が真ん中へすぅ~っと寄っていって、そこから外へ出るという作りになっているそうです」

その隣の洗面室は、壁面に京都で制作された貝絵が440枚はめ込まれている。「一枚一枚写真に撮って調べましたが、同じ絵は一枚もなかったです」と加藤さん。

離れ和館の3室ある和室のうち、一番奥にある6畳の和室は一番地味とされるが、床柱が価値の高い黒柿で、存在感を放っている。もとは庭にあった離れ座敷で宴会などをする際の控の間として使われ、のちに真蔵氏の長男の奥さまの部屋として使われていたという。

あとの2室は、8畳の主の間と、客人のおともの人を通す6畳の控の間。主の間の天井は屋久杉が使われているのだが、床柱の位置を境に節がある方とない方で分けられているのが面白い。そして畳は中央部分が色濃くなっており、これはイグサの編み方(中継ぎ表)によるものだそうで、当時から高級品だったが、いまでは3人ほどの職人しかできないとか。

家具を含めて大正期の趣をそのまま残す応接室見事な貝絵が壁にはめ込まれた洗面室。洗面台は大理石。洗面台の中央にあるハート形の石鹸枠は、猪目(いのめ)模様といわれるもの。その名の通りイノシシの目に由来し、古くから魔除けや福を招くという意味合いを持ち、神社仏閣などでも見られる。山本家住宅では、玄関の両端にある柱の下部に取り付けられた銅板にもこの模様が施されている
家具を含めて大正期の趣をそのまま残す応接室離れ和館の8畳の和室。右側がおともの人用の控の間

設えに宿るおもてなしの心

贅沢な素材が随所に使われ、職人の腕が活きた見事な意匠が光る。そこには迎賓館として客を迎え入れる気持ちが入っている。

離れ和室の廊下角の継ぎ目は、客を招き入れるという意味で“入”という字になるように板が組んである。京都のお茶屋でも見られるという。そして総ケヤキ造りの階段を上がり洋館2階へ。

1階応接室の上にあたる北側の和室は、建てる際に伐採した白梅の木を床柱に利用している。和室であるが、最初の洋館部分ということで外から見れば洋風になるように窓の意匠がされている。

北側と同様に南側の和室も主の間と控の間が続いており、間の襖は主の間側は金色、控の間側は銀色で違いを出している。欄間には家紋の五三の桐が透かし彫りされている。

総ケヤキ造りの階段。100年経ってもミシミシいわない丈夫さ。ねじれた手すりも職人の手作り総ケヤキ造りの階段。100年経ってもミシミシいわない丈夫さ。ねじれた手すりも職人の手作り
総ケヤキ造りの階段。100年経ってもミシミシいわない丈夫さ。ねじれた手すりも職人の手作り外から見た洋館2階北側和室。中が和室とは思えない窓の建具と鎧戸付きで洋風に見立てている。北側和室の欄間にはおもてなしの遊び心が。「お客さんに『これ何に見えるか』と問答的に造られたものだそうです。われわれが案内するときも見学の方に聞くのですが、なかなか当ててもらえないんですけどね(笑)。月と太陽を表しているそうです」とのこと。ぜひ実際に見てほしい
総ケヤキ造りの階段。100年経ってもミシミシいわない丈夫さ。ねじれた手すりも職人の手作り2階南側和室の床の間に開いた穴は「狆(ちん)くぐり」という。江戸時代に大奥や大名が飼っていた犬の狆が由来。明かり取りのための細工という説もある。多くは四角形で、ここの丸い形は珍しいそうだ
総ケヤキ造りの階段。100年経ってもミシミシいわない丈夫さ。ねじれた手すりも職人の手作り2階北側の和室を控の間から主の間を見た様子

主のみが出入りした望楼から見えるものは…

迎賓館であっても、3階の望楼には客人は一切通さなかったそうだ。北側と西側の2ヶ所に設けられた窓。北側の窓からは、近くを流れる揖保川がよく見え、水運による米や材木などの集積場や、川のそばにあった自身が営むマッチ工場の様子を、西側の窓からは四国からの船着き場を確認するなどしていた。

望楼北側の窓からの景色。木々が生い茂る夏が過ぎ、冬になると姫路城の天守が見えるそうだ望楼北側の窓からの景色。木々が生い茂る夏が過ぎ、冬になると姫路城の天守が見えるそうだ
望楼北側の窓からの景色。木々が生い茂る夏が過ぎ、冬になると姫路城の天守が見えるそうだ望楼から景色を眺める窓の形は、櫛形窓(くしがたまど)。京都の桂離宮内の付書院にこの形が見られ、加藤さんによると真蔵氏が仕事で京都によく出かけていたことからヒントにしたのではないかという

建築時の趣を残す魅力を伝え続ける

主屋から見えた中庭は敷地の西側に位置するが、南側に美しく整えられた庭が広がる。立派な庭だが、池が設けられていないのには主の思いが込められている。「屋敷内に水ものを作ると建物の傷みが早いと」と加藤さん。

ただ、滝から流れる水路はデザインされており、庭に面した離れ和館に客を迎え入れるときは、水を流していたという。建物を大切にしながら、もてなしの心がここにも表れている。

庭の水路庭の水路
庭の水路庭から見た離れ和館の8畳と6畳が並んだ和室。障子の下部にある細工は「猫またぎ」といわれるもの。雪見障子は縦開きだが、これは横開き。江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉が生類憐みの令を発令してから小動物を飼う習慣が広まったことをきっかけに動物が出入りできるように考えられたもので、京都のお茶屋さんなどで設置しているところもあるようだが、これも珍しいものだという

無償で姫路市に寄贈された山本家住宅だが、管理・運営を任されているのは加藤さんが事務長を務める網干歴史ロマンの会。月2回の見学会で資料代として受け取る300円が管理費ともなり、加藤さん含め30人ほどのボランティアが守り続けている。

「修復がほぼされていなく、そのまま残っているので、それが一つの値打ちやなと」と加藤さん。そして「田舎のまちにもこういうところがあることを知っていただきたい」と強く願う。

造られた時代の息遣いがあるような、歴史を感じることができた。職人の技が随所に生きた伝統建築のすばらしさ、そして網干地区というまちの中でつながれた歴史も見ることができる貴重な遺構である。本記事で紹介しきれていない箇所もあり、見どころの多さから何度か訪れるリピーターもいるという。ぜひ機会あれば訪れてほしい。

取材協力:あぼし観光ボランティアの会/網干歴史ロマンの会 
     あぼしまち交流館 http://aboshimachi.com/
※山本家住宅一般公開は毎月第1・3日曜に実施、臨時公開の相談可(1ヶ月前までに申し込み)
http://aboshimachi.com/assets_c/2017/01/y-info-2-262.html

庭の水路山本家住宅の北西にある鮮魚店の2階は、山本家の庭にあった離れ座敷を1955(昭和30)年頃に移築したもの

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