「ロッキー」シリーズなどを手掛けた名プロデューサーが監督

死期を悟った中年男が、疎遠だった家族とどう向き合うかという話である。正直、私は余命何ケ月という話が苦手で、この映画「海辺の家」も知ってはいたが、ずっと避けていた。しかし、連載の目標としていた「30回」のゴールが近づいてきたので、見てみた。食わず嫌いだった、と反省した。

建築や住宅、それを設計する建築家は、映画やテレビ米国ドラマの中でどう描かれているのか。元・建築雑誌編集長で画文家の宮沢洋(BUNGA NET編集長)が、「名セリフ」のイラストとともに、共感や現実とのギャップをつづる。今回取り上げるのは、建築設計事務所をリストラされた男が主人公の映画「海辺の家」だ。

この映画はアーウィン・ウィンクラー監督により2001年に制作され、日本では2002年に公開された。大ヒットはしなかったが、配信などで見た人の評価はすこぶる高い。私のように「食わず嫌いだったけれど、意外に……」という人が多いのだろう。

ウィンクラー監督(1931年生まれ)は、もともとマーティン・スコセッシ監督作や「ロッキー」シリーズなどを手掛けてきた名プロデューサー。映画監督デビューは1991年(60歳)と遅い。この「海辺の家」は、70歳のときの監督作品だ。

前触れなくリストラされる主人公の担当は「模型制作」

大手の設計事務所に勤めるジョージ・モンロー(ケヴィン・クライン)は、海辺の崖に立つボロ家に住んでいる。妻ロビンと離婚し、気ままに暮らしている彼は、周囲から変人と見られている。

映画のオープニングは、ボロ家のベッドで目覚めたジョージが、ブリーフ1枚で外に出て、海を見下ろすシーンから始まる。映画「ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ」もそうだったが、なぜ建築家はパンツ1丁というイメージがあるのだろうか……。

ジョージは設計事務所に勤めているが、正確には建築家ではない。20代半ばから20年以上、模型制作を専門に担当していた。だが、ある日、前触れもなく解雇を言い渡される。

上司:「最近はCGを使えば、数時間でいろいろなデザインをクライアントに示せる。なのに、君は昔のままだ」。
ジョージ:「こんな仕事、最初から嫌いだった」。
上司:「退職金で、CG技術を学べ。自宅の近くで転職もできるだろう」。

(イラスト:宮沢洋)(イラスト:宮沢洋)

それを聞いて激昂したジョージは事務所内にある模型を叩きつぶして回り、職場の同僚たちはうろたえる。事務所を追い出されるように後にしたところで、ジョージはお腹を押さえて倒れてしまう。

荒れた息子とセルフビルドで家を建てる

病院のベッドで目覚めたジョージは、自分の余命がわずかだと悟る。そして、海辺のボロ家の建て替えを決意する。なぜ余生がわずかなのに、家を建て替えるのかというと、そこにはある考えがあった。

ジョージの前妻ロビンは、息子のサム(ヘイデン・クリステンセン)を引き取り、再婚している。現在は再婚相手との間に2人の子どもができて、裕福な生活を送っている。しかし、高校生のサムは義父と反りが合わず、ドラッグに手を出す荒れた生活。夫妻はサムの扱いに困り果てていた。

ジョージはロビンに、夏休みの間、サムを自分に預けてほしいと頼む。家の建設を手伝わせたいのだと。しかし、サムはそれに猛烈に抵抗。それでもジョージはサムを無理やり連れて帰る。

言い合いを繰り返しながら、父子の家づくりが始まる。特別な工事以外はプロに頼まない。いわゆるセルフビルドだ。

2人で元のボロ家の壁を壊し、新しい木材を組んでいく。やがてセルフビルドの現場には、2人の子どもを連れたロビンや、近隣の人たちも加わる。そして、親子の関係は……という話である。

(イラスト:宮沢洋)(イラスト:宮沢洋)

「セルフビルド」のセラピー効果

あらすじを聞くと、「よくあるお涙頂戴モノでしょ」と思うかもしれない。だが、見ていてあざとい感じはしない。ああ、「確かにこれなら父子が分かり合えそう」と思える。それは、親子役のケヴィン・クラインとヘイデン・クリステンセンの演技力に負うところが大きい。

アカデミー賞男優であるケヴィン・クラインは、淡々と駄目な父親を演じており、押しつけがましくない。荒れた息子役のヘイデン・クリステンセンも、反抗期ゆえの心の揺れに納得のいく演技。若いのにうまい役者だなあと思っていたら、「スター・ウォーズ エピソード2」(2002年)でダークサイドに落ちるアナキン・スカイウォーカーの俳優だと、途中で気づいた。

この連載は、そんな演技評の場ではない。書きたいのは、父子の邂逅がしっくりくるもう1つの理由の方だ。それは、「家づくり」を物語の舞台にしたことである。

昔から、絵画やものづくりには、心理療法の効果があるといわれている。建物のセルフビルドはその最たるものなのではないか。そうした「つくるセラピー効果」を意識して、制作陣は「親子で家を建てる」という設定にしたと思われる。

ジョージが「模型制作担当」だった理由

けれども、家を建てるには、法律を遵守した設計図を描き、役所の認可を受けなければならない。建設に必要な部材を発注するには、人脈も必要だ。もし主役のジョージが普通のサラリーマンだったら、「家のセルフビルドはさすがに無理でしょ、倉庫くらいにすればいいのに」と突っ込みを入れたくなる。主人公は「設計事務所をリストラされた男」という設定でなければならなかったのである。

「設計の資格があること」は物語上の必然だったとして、ではなぜ「模型制作」というニッチな担当でなければならなかったのか。これにも理由があると思う。

序盤で事務所内の模型を壊してまわるシーン。これは長年勤めた会社を突然クビになった腹いせだけではない。ここからは私の想像だ。

ジョージは若い頃、設計希望だった。だが、それよりも手先の器用さが認められ(あるいは設計のプロジェクトで何か失態を犯し)、模型制作担当に回された。人とのコミュニケーションが少ない模型づくりは嫌いではなかった。だから会社の命に従っていた。それでも、ずっと設計への思いはあった。

だから密かに海辺の自邸を設計して、建設許可を取り、材料の発注まで済ませていた。あと何年か模型制作の仕事を続け、退職したら、自分の手で建てよう。そう思っていたのではないか。

冒頭シーンにちらりと映る家の模型

おそらく誰も気づかないと思うが、この映画の冒頭のシーンをよく見ていると、ジョージのボロ家の窓際に置かれた家の模型が映る。きっと、いつか建てるこの家の模型を毎朝眺めては、現実の仕事に折り合いをつけていたのだろう。

(イラスト:宮沢洋)(イラスト:宮沢洋)

それが、突然の解雇。20年間押し殺していた心の堰が崩れ、怒りに任せて模型をたたき壊して回る。あのシーンは、ジョージのそういう心情を表していたのではないか。

息子のサムが父親を嫌っていたのも、自分の望まないことをやり続けている父への軽蔑があったのかもしれない。自分で設計した家を建てる父の姿に、父自身の“心の解放”を感じて、徐々に言うことを聞くようになったのではないか……。といったことは映画内では全く説明されないが、そう考えると余計に泣ける。

ところで、この映画の中では「模型は時代遅れだ」といわれているが、20年たった今も、建築模型は顕在だ。むしろ、CG全盛の中で、手の込んだ模型はプレゼンの場で大きな武器となっている。手描きのパースもしかり。VR(仮想現実)や MR(複合現実)が当たり前になったとしても、きっとそれは変わらない。

■海辺の家
日本公開は2002年7月(米国公開は2001年10月)
原題:Life as a House
監督:アーウィン・ウィンクラー
脚本:マーク・アンドラス
キャスト:ケヴィン・クライン、ヘイデン・クリステンセン、クリスティン・スコット・トーマス、ジェナ・マローン
126分/米国

公開日: