原宿が注目され始めたのは1970年代。若い女性向けの雑誌『an・an(アンアン)』『non-no(ノンノ)』によって原宿の街が紹介され、ガイドブックや雑誌を手にして観光地などを訪ねる「アンノン族」によって、原宿の街は席巻されました。
その後も原宿では、「ホコ天」「竹の子族」「カワイイ」など、時代とともに変化しながら数多くの若者文化を生んできました。
そんな若者文化の中心である原宿ですが、歴史は古く、中世以前にまでさかのぼります。今回は若者が集う街、原宿の知られざる歴史を探ります。
原宿駅の物件を探す街の情報を見るおすすめ特集から住宅を探す
昔は「原っぱの中の宿場」
原宿の地名は、鎌倉時代にまでさかのぼります。文献上は中世鎌倉街道の宿場の地名として登場します。この地名の由来は「原っぱの中の宿場」といった意味でしょう。
上の図は1886(明治19)年の迅速測図に、原宿駅と山手線の推定位置を筆者が書き加えたもの。これを見ると、現在の原宿駅の周辺は畑と茶畑が大半で、一部水田があります。周辺の開発が進んでいなかった鎌倉時代であれば、周辺が未開拓の原野だったということも想像できます。
原宿村の北に位置する「千駄ヶ谷村」の地名は、「千駄萱」が由来といわれます。「千駄」は「一駄」の1,000倍であり、「一駄」は馬1頭で運べる荷物の量を指します。つまり「千駄萱」は、馬1,000頭で運べる量の萱(かや)を産出する土地ということ。
萱は、茅葺き屋根の材料であり、ススキの茎などを乾燥させたものをいいます。つまり、かつての千駄ヶ谷は、ススキの生い茂る原野だったということでしょう。
『更級日記』に周辺の様子が描かれている

ススキが高く生い茂る原野のイメージ
平安時代に書かれた菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)による『更級日記(さらしなにっき)』には、高輪から広尾、恵比寿または目黒方面に向かう道すがらを次のように記しています。
「武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく泥(こひぢ)のやうにて、むらさき(紫草)生ふと聞く野も蘆荻(あしおぎ)のみ高く生ひて馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生ひ茂りて」
簡単に訳せば、「武蔵の国に入った。特に情緒のある風景も見えない。浜も砂が白いわけでもなく泥土のようで、紫草の産地として歌にも詠まれた武蔵野も、アシやススキばかりが高く生えていて、武士が馬に乗って弓を持っているその弓の先が見えないほど高く生い茂っている」となります。
千駄ヶ谷や広尾、恵比寿付近がススキが高く生い茂っていた原野なのであれば、原宿も同様の風景で、だからこそ原っぱの宿場という地名が付けられた可能性は否定できないでしょう。
かつての主要道だった水無橋(みずなしばし)

山手線をまたぐ水無橋。日本でも有数の歴史を持つ跨線橋だ
原宿駅から150mほど渋谷寄り、山手線の線路をまたぐ跨線橋(こせんきょう)があります。現代の地図を見ると、わざわざここに跨線橋を架ける必要はないように思えます。
しかし、この跨線橋から通じる道は、江戸時代には江戸の中心部と世田谷方面を結ぶ街道であり、周辺では唯一の、東西を結ぶ街道でした。
そのため、日本鉄道品川線の開業当時、道を分断するわけにはいかないということで架けられた、日本でも屈指の古さを誇る跨線橋でした(現在は老朽化のため架け替えられて、当初のものではなくなっています)。
当時は水のない場所に橋が架かる陸橋は珍しく、水無橋の名が生まれたといいます。
原宿駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す
戦後のワシントンハイツから変化が始まった

都心にありながら緑豊かな代々木公園
現在、原宿駅の西側に広がるのは、明治神宮と代々木公園です。代々木公園は、1909(明治42)年に設けた代々木練兵場が始まりです。
練兵場の時代には、エンジン式の航空機が日本で初めて飛行実験を行った記録もあり(1910(明治43)年12月13日~19日)、公園南側には日本の航空の発祥の地の碑もあります。

かつて練兵場だったときに大正天皇と皇太子時代の昭和天皇が閲兵式に臨んだ地に植えられた「閲兵式の松」
陸軍練兵場は、第2次世界大戦後米軍に接収され、1946(昭和21)年に米軍宿舎ワシントンハイツが設置されました。米軍の部隊は1958(昭和33)年まで駐留し、アメリカ軍人やその家族たちが住んでいました。
こうしたことから、表参道にはアメリカ人向けのお店が並ぶようになります。客層がアメリカ人なので、店名などの表記は当然ながらアルファベット、英語表記になりました。
たとえば、書籍や玩具、雑貨を扱っていた「橋立(はしだて)書店」は店名を変更し、「KIDDY LAND」としたのです。これが現在も人気の「キディランド」です。
昭和の東京五輪が原宿を変えた

代々木公園に現存する五輪村宿舎に利用された旧米軍住宅
東京五輪、といっても令和のものではなく、1964(昭和39)年に開催された、前回の東京五輪です。
開催に伴って代々木のワシントンハイツは返還され、米軍宿舎が選手村として利用されました。終了後は公園化が進められ、1971(昭和46)年、都立公園として生まれ変わり、現在に至っています。
代々木公園には、旧米軍宿舎として、その後に選手村宿舎として利用された建物が1棟保存されています。
原宿駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す
明治神宮

1920(大正9)年、明治天皇と昭憲皇太后の両陛下を祭神とする明治神宮が創建
このあたりは、江戸時代初期には熊本藩・加藤家の屋敷が、後には彦根藩・井伊家の下屋敷がありました。
明治になると明治天皇の皇室御料地(所有地)となり、明治天皇が亡くなられた後の1920(大正9)年、明治天皇と昭憲皇太后の両陛下を祭神とする明治神宮が創建されました。
創建にあたって全国から献木を募り、これによって植えられた約20万本の樹木が、およそ70万平方メートルという広大な境内に、都心とは思えない深々とした森林をつくっています。

明治神宮の大鳥居(二の鳥居)
二の鳥居から本殿に向かう左手に入り口がある明治神宮御苑は、皇后のために明治天皇自らが整備した皇室御料地の日本庭園。園内には南池を中心に雑木林が広がり、「清正の井戸」と呼ばれる湧き水や、ツツジの植え込み、菖蒲田(しょうぶた)、モミジ林などがあり、四季折々で楽しめます。

代々木
二の鳥居と一の鳥居の中間、参道の脇にモミの木があります。この木が「代々木」。「代々受け継いだ大木」の意味で、これが代々木の地名となりました。江戸時代末期には幹の太さ10.8m、枝張り54mに及ぶ大木だったといいます。初代の木は空襲で焼け、現在の木は2代目。
表参道のケヤキ並木

樹齢100年のケヤキが道を彩る表参道
表参道は明治神宮の表参道ということで付けられた地名で、青山通りの表参道交差点から、山手線をまたぐ神宮橋までのおよそ1kmの大通りをいい、明治神宮の造営に伴って1920(大正9)年につくられた道です。
ケヤキ並木はこのときに植えられました。今では植樹されたケヤキが成長し、美しいケヤキ並木となっています。ただし、神宮橋から明治通り交差点までは大正時代に植樹されたものですが、そこから表参道交差点までの区間は、戦災を受けてその後に再び植えられたものになります。
原宿駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す
渋谷川の跡

表参道に残る「参道橋」の石柱
その表参道沿い、キディランド先の歩道橋近くの歩道を見ると、「参道橋」と書かれた石柱が目に入ります。この石柱のある通りは、かつて渋谷川という川だった所。
潅漑用水などに利用されており、江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎が「穏田の水車」として作品を残しています。その渋谷川は1963(昭和38)年に暗渠化され、現在は遊歩道になっています。

現在のキャットストリート
表参道の参道橋跡から南側がキャットストリート、北側が裏原宿と呼ばれており、若者たちでにぎわっています。道沿いの所々に橋名を刻んだ石柱が残り、わずかながらも渋谷川があった頃の面影を伝えています。
数百体の石仏が並ぶ古寺「長泉寺」

長泉寺の本堂
キャットストリートを進んで、途中で右へ折れると、明治通りに出ます。通りの向かい側には、「そうと言われなければ分からない」ほど、ひっそりとたたずんでいるのが長泉寺。
詳しい記録は残っていませんが、1592(文禄元)年に荒れていたこの寺を再興した記録があるので、中世以前の創建ということは確実と思われます。

長泉寺は、都心では珍しい石仏の寺
墓地の最奥部には200体を超える石仏が並んでいますが、准胝(じゅんてい)観音や千手観音など、都内の石仏としては珍しいものも見られます。
原宿駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す
平安時代の伝承が伝わる街角

勢揃い坂。この場所に数千人の鎧武者が集結した
表参道の参道橋の石柱まで戻って、渋谷川の跡を上流方向へさかのぼって歩きます。辺りは閑静な住宅街に店舗が点在する裏原宿と呼ばれる所。この裏原宿を抜けると、青山熊野神社があります。
神社の脇の緩やかな下り坂は「勢揃い坂」。平安時代、八幡太郎の通称で知られる武将、源義家が、後三年の役(平安時代の後期、前九年の役に続いて東北地方で起こった戦乱)に出陣するため、鎧武者たちを勢ぞろいさせたという伝承があります。
つまりこの坂道は、古代の奥州街道であり、中世には鎌倉街道と呼ばれた道。原宿が旧鎌倉街道の宿場であったことはすでに述べましたが、この坂道には、中世以前からの歴史が伝わっているのです。

原宿通りは旧鎌倉街道として長い歴史を持つ
勢揃い坂から原宿駅方面へ戻ると、やがて原宿通りにたどり着きます。この原宿通りが、旧鎌倉街道。鎌倉武士たちが駆け抜けた道です。
にぎやかな竹下通りに隣接する「東郷神社」

東郷神社
原宿通りを抜けて明治通りに出ると、明治通りの対面には竹下通りの入り口。現在の原宿を代表する人気スポットです。その竹下通りに隣接して、神社があります。東郷神社です。
東郷神社は、日露戦争で日本の連合艦隊の司令長官となり、1905(明治38)年5月、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に完勝した勇将・東郷平八郎を祭神としています。

東郷神社の庭園
境内には池を配した庭園もあり、すぐ近くに竹下通りのにぎわいがあるとは思えない、静かで安らかな雰囲気を漂わせています。
東郷平八郎は、軍国ファシズムの人ではありません。「軍神として祭りたい」という話が東郷本人にあったとき、かたくなに拒否したといいます。にもかかわらず、東郷の死後ほどなくして、軍の関係者によって東郷神社の建立が決まったのです。
東郷を軍神と抱いた人々によって、日本は軍事国家へと変貌していきました。今、平和な竹下通りの風景を、東郷はどのような思いで眺めているのでしょうか。
原宿駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す
皇室専用の駅がある

皇室専用ホーム
東郷神社を裏手から出て、山手線の線路を目指します。と、原宿駅の北側200mほどの所に、黄緑色の屋根の小さな駅のような建物が見えます。
これは皇室専用ホーム。通称“宮廷ホーム”ともいい、皇室専用の特別な駅です。つくられたのは1925(大正14)年10月。病気静養中だった大正天皇が神奈川県の葉山御用邸へ移動する際、人目を避けられるようにとの理由で初めて使用されました。
昭和天皇の時代には、那須や須崎の御用邸への移動などはもっぱらこのホームが使用されていました。しかし、平成天皇は、列車での移動は基本的に東京駅を利用しています。2001(平成13)年5月、全国植樹祭から東京に戻られた際には皇室専用ホームが使用されましたが、それ以降は利用されていません。
皇室専用ホームを取り巻く状況も変わりました。
以前は皇室専用ホームから山手貨物線の線路を利用して、皇室専用列車を運行させることは比較的容易でしたが、現在では山手貨物線は埼京線や湘南新宿ライン、成田エクスプレスなどが運転されていて、過密な列車ダイヤになっています。この過密ダイヤに臨時の皇室専用列車を組み込むことはかなり困難なのです。
また、皇居からJRを利用するのであれば、わざわざ原宿までやって来るよりは、最短距離の東京駅のほうが警備も容易で、しかも新幹線をはじめ、各方面への列車も頻発しています。こうした状況から、現在の天皇陛下の移動はもっぱら東京駅が起点になっているのです。
とはいえ、原宿の皇室専用ホームは廃止されたわけではなく、夜には明かりもともるし、定期的に草刈りも行われています。このまま保存されるのかどうかはまだ分かりませんが、何らかの形で活用される可能性はありそうです。
原宿駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す
更新日: / 公開日:2020.11.17














