高田馬場駅周辺は、昔から人の往来が比較的多かったところです。古くからの街道筋で、歴史を重ねた神社もあります。

若者が多い学生街として語られることが多い高田馬場ですが、そこにはあまり知られていない歴史のエピソードがあります。
高田馬場駅の物件を探す街の情報を見るおすすめ特集から住宅を探す

高田馬場駅の発車メロディは『鉄腕アトム』

高田馬場駅の発車メロディは『鉄腕アトム』。メロディは1番線がやや低いキーで、2番線のほうが高いキーになっています。

 

『鉄腕アトム』は、「漫画の神様」といわれた漫画家・手塚治虫の代表作。1963(昭和38)年、日本初のテレビアニメシリーズとして放映され、大ヒットしました。

 

この作品では、登場人物であるお茶の水博士が長官をつとめる科学省が高田馬場にあり、ここで2003年4月7日にアトムが誕生したという設定になっています。

 

また高田馬場には現在も手塚プロダクションの本社があります。そうしたことから、イベント的に2003年4月限定でテレビアニメの主題歌が発車メロディに使用されたのですが、好評だったため継続使用されることになったものです。

 

ガード下を彩る手塚治虫キャラクターの壁画。写真は山手線のガード下のもの

駅前の早稲田通りのガード下には手塚治虫のキャラクターが描かれた巨大な壁画があります。JRのガード下には「ガラスの地球を救え」をテーマに、お茶の水博士が新発明したリサイクルマシンによって地球環境が改善されていく、などといったシーンが描かれています。

 

壁画はもうひとつ、山手線に並走する西武新宿線のガード下にもあり、高田馬場・西早稲田地域の「歴史と文化〜過去から現在そして未来へ」をテーマに歴史風景が描かれています。

さかえ通りの入り口。飲食店だけでなく八百屋や理容院など地域密着の店もあります

早稲田口を出てガード下の西側の横断歩道を渡ると正面にのびる道が「さかえ通り」。さほど広い道ではない、というより路地といったほうがいいような道ですが、道の両側にぎっしりと店舗が並び、人通りも多くにぎわっています。

 

早稲田通りから脇に入る道はさかえ通り以外にも数多くありますが、さかえ通りほど店舗が密集している道はありません。なぜこの通りだけが多くの店でにぎわっているのでしょうか。

 

この通りは、戸塚から落合を経て江古田へ通じる古道で、その古道が早稲田通りと合流する場所が高田馬場駅前、さかえ通りの入り口です。一般的にいって二つの街道が合流する場所周辺はにぎわうということで、江戸時代には茶店や一膳飯屋などがあることが多かったのです。

 

こうした歴史的背景に加え、さかえ通りの人の通行量が急増する出来事がありました。それが、1927(昭和2)年、西武鉄道の仮終着駅となる西武高田馬場駅の開業です。

 

西武新宿線、下落合駅~高田馬場駅間。このあたりに開業時の西武高田馬場駅があったと推定されますが、確証はありません

この当時、西武鉄道は早稲田方面への延伸を計画していました。そのため、西武高田馬場駅は延伸工事を前提とした場所に建設され、山手線高田馬場駅とはやや離れた場所に設けられたのです。その場所が、現在のさかえ通りの先、神田川の北側でした。

 

つまり西武鉄道の利用者は、西武高田馬場駅を下車した後、現在のさかえ通りを歩いて山手線高田馬場駅へ移動していたのです。ということで、昭和初期のさかえ通りは、西武高田馬場駅と山手線高田馬場駅との徒歩乗り換えルートになっていたのです。

 

このため、さかえ通りは周辺でも最も多くの人が歩く道になっていたと思われ、この時期に店舗が増えた可能性が考えられます。

 

西武鉄道はその後、早稲田延伸の計画を変更。1928(昭和3)年に西武高田馬場駅を現在の位置に移設しました。これにより、さかえ通りは乗り換えルートではなくなるのですが、通り沿いは山手線の駅前すぐという立地もあって、さびれるということもなかったようです。

高田馬場駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す

新目白通り(十三間通り)。戦時中の計画道路としてはかなり道幅が広い

さかえ通りを抜け、神田川の先、西武新宿線の踏切を渡ると、交通量の多い通りに出ます。これが新目白通りで、通称「十三間通り(じゅうさんげんどおり)」と呼ばれます。

 

道幅13間(24m)の直線道路で、太平洋戦争のさなかに建設が進められたものの、結果的には戦況の変化などさまざまな理由で戦争中の道路整備が完成せず、戦後になってようやく完成した道路です。

 

この道路は、周辺の飛行場や滑走路が爆撃された際の緊急代用滑走路として計画された、といった話も伝わります。道路が実際に滑走路を想定してつくられたという史料はありません。

 

ただ、道路計画地で「建物疎開」という呼び方で周辺民家の強制立ち退きも実行されるなど、戦時中であるにもかかわらず道路建設がかなり強硬に進められていたことが分かっています。

 

幅広く直線が続く道路は、1945(昭和20)年当時の戦闘機であれば離着陸が可能な規模ともいいます。こうしたことから、単なる「都市伝説」と決めつけることはできない話、とも思われるのです。

徳川将軍家ゆかりで、諏訪町の地名の由来となった諏訪神社

駅から早稲田通りを早稲田方向へ進み、明治通りとの交差点で右折するとほどなく「諏訪町」の交差点。この交差点のすぐ西にあるのが諏訪神社です。

 

諏訪神社は弘仁年間(810~824年)、平安時代の歌人・小野篁(おののたかむら)により大国主命(おおくにぬしのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)をまつったのが始まりとされています。

 

当時の名称は松原神社。神社の東側を南北に通じる道が松原街道と呼ばれていたことが命名の由来といいます。この松原街道は後に鎌倉街道と呼ばれるようになりました。「いざ鎌倉」というときに鎌倉武士が駆け抜けた、都心部に残る数少ない古道のひとつです。

 

松原神社が諏訪神社と改称するのは江戸時代初期。後に尾張徳川家の祖となる徳川義直が、信濃国の諏訪大社の神を勧請(かんじょう:祭神の分霊を他の神社に招いてまつること)して併せてまつり、諏訪神社となりました。

 

これ以降徳川家とのつながりが強くなり、寛永年間(1624~1644年)に徳川3代将軍家光が社殿を造営、タカ狩りの折には立ち寄るようになり、4代将軍家綱はタカを奉納。タカ狩り関連の絵馬が多数奉納されています。

 

元禄年間(1688~1704年)頃には、諏訪神社の名称から「諏訪村」が成立しています。諏訪村はその後諏訪町となりましたが、現在は諏訪町の地名は交差点名として残っているだけです。

 

壮麗な社殿は正面の菊の御紋が大きく目立つ

壮麗な社殿は正面の菊の御紋が大きく目立ちます。これは1882(明治15)年、近くに本格的な大砲の実験施設である近衛隊(このえたい)大久保射的場が建設され、その開場式と射的砲術の天覧所(てんらんじょ)が神社の境内に設けられたため。境内に明治天皇射的砲術天覧所阯の史跡碑があります。

高田馬場駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す

江戸時代の「高田馬場」の伝統を受け継ぐ穴八幡宮

伝承によれば1062(康平5)年、源義家が前九年の役に勝利したことを感謝し、この地に源氏の氏神である八幡神をまつったのが始まりとされる古い神社です。変わった名称ですが、神社の南斜面に洞穴があって、その穴から阿弥陀如来像が発見されたことが由来とか。

 

江戸時代以前は神仏習合で、八幡神は阿弥陀如来が姿を変えた存在という考え方がありました。そのため、阿弥陀如来像の発見が八幡神の神徳と考えられたのです。

 

このエピソードを知った徳川3代将軍家光は、ここを幕府の祈願所としました。そして徳川8代将軍吉宗によって、1728(享保13)年に流鏑馬(やぶさめ)がこの神社に貢納されるようになり、その流鏑馬に用いられた馬場が「高田馬場」でした。

 

穴八幡宮の参道入り口にある流鏑馬の像

穴八幡宮の門前には「流鏑馬の像」が建てられています。八幡宮の流鏑馬は、会場を神社近くの戸山公園に変えましたが、新宿区の無形文化財として現在も続けられています。

現在の高田馬場跡。どこにでもあるような住宅地ですが、まっすぐにのびる道路が馬場の跡であることを物語っています

高田(たかた)は江戸時代の地名で、現在の新宿区高田馬場・早稲田・落合、豊島区高田などの一帯が相当します。

 

江戸時代の初め、このあたりは徳川家康の側室であった於茶阿の方(おちゃあのかた)の邸宅があり、於茶阿の方の実子である松平忠輝(まつだいらただてる)が越後高田60万石の城主となったことから、この一帯には高田の地名がつけられたといいます。その後、付近には馬術や弓術の練習場がつくられ、高田馬場と呼ばれるようになりました。

 

早稲田通りの西早稲田交差点から脇道を入ると、住宅街の道路脇に高田馬場跡の標識があります。少し北には水稲荷神社があり、馬場跡を思わせる長い参道があります。参道には『忠臣蔵』のエピソードによる、「堀部武庸加功遺蹟(ほりべたけつねかこういせき)」の碑があります。

高田馬場駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す

公開日: