田端駅その1では、田端駅の複雑な歴史をクローズアップしました。今回は駅から街へ出てみます。
田端駅周辺は、坂道が続くなかに閑静な住宅地が広がる高台エリアと、下町ムードの東田端地区に大きく分けることができます。
崖の中腹に駅があるという特殊な立地の田端。歴史とエピソードを探ってみます。
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山手線の正式な「終点」

田端駅ホーム北側。北口から続く採光のいい大屋根に覆われている。
山手線は、都心部を環状運転している電車です。車庫から出発、あるいは車庫に入る以外は始発も終点もなく、一周約1時間で同じ線路を走り、同じ駅に何度も停車しています。ただ、その停車駅は、すべてが“山手線の駅”ではありません。
実を言うと、東京~有楽町~新橋~浜松町~田町~品川の各駅は“東海道本線の駅”です。また、東京~神田~秋葉原~御徒町~上野~田端の各駅は“東北本線の駅”です。
ということで、山手線は品川から渋谷、新宿、池袋を経て田端までの区間となるのです。起点が品川、終点が田端。田端駅は山手線の正式な終点駅なのです。
山手線の車両は、運行上では品川~渋谷~新宿~池袋~田端は山手線を走り、田端~上野~秋葉原~東京は東北本線に乗り入れ、東京~新橋~浜松町~品川は東海道本線に乗り入れ、ということになっているのです。
ただ、これは「駅の戸籍」に基づいた分類で、実際には東海道本線区間も東北本線区間も、そして山手線の区間も、山手線の車両が走る専用の線路が設けられています。だから乗り入れての環状運転が可能となっているわけです。
興味深いのは、駅としての戸籍上“東海道本線”に所属する浜松町駅には、過去に東海道本線の列車が停車したことはなく、駅の戸籍上“東北本線”に所属する鶯谷駅に、東北本線の列車が停車したことも一度もありません。
というより、どちらの駅にも、東海道線や東北本線が停車するための設備がないのです。駅の戸籍上の所属はともあれ、浜松町駅も鶯谷駅も、山手線と京浜東北線の線路しかなく、それ以外の電車は停車できないのです。
こうした事情もあって、浜松町が東海道線の駅であれ、鶯谷が東北本線の駅であれ、これらを「山手線」と呼ぶことに違和感は全くない、ということになっているのです。
階段と切り通しの駅周辺

北口駅前。駅ビルのアトレヴィと商業施設の雑居ビルが見える。
駅の周辺を歩くと、田端駅は崖の途中に造られたことを実感します。田端駅の表玄関である北口を出ると、駅ビルのアトレヴィ、そして飲食店などが入居している雑居ビルがあります。道路の向かい側にはアスカタワーとパチンコ店。
右には操車場へ続く多数の線路をまたぐ長い橋、左は高台を貫く切り通しになっていて、高台へ上る急角度の階段があります。
崖の中腹に駅があり、南西部は崖、北部は車両基地などの鉄道施設に挟まれ、駅前のスペースが限られているため、山手線の駅前としてはあまり規模の大きな繁華街となっていません。

駅の南側の切り通しと、そこに架けられた橋。
しかし、こうした地形は、どちらかといえば好ましい影響を与えたようです。駅前に大規模商業施設が展開しにくい地形のため、駅からやや離れた周辺の商店街が残っています。
商店街は、駅前の切り通しを抜けた先から不忍通りと交差する動坂下交差点周辺、高台に上って駒込方面へ進んだ田端高台通り、そして線路をまたぐ橋を渡った先の東田端地区などにあります。
前二者はどちらかといえば山の手の雰囲気が感じられ、後者は下町らしい気さくなムードを漂わせています。
田端から上野へは8分、池袋へ9分、東京へ15分。交通アクセスは抜群なのに、喧騒とは縁遠く、閑静な住宅地が広がります。これが田端の魅力の一つで、そんな雰囲気が気に入って田端に住むという人も少なくないようです。
田端駅の利用者は、ほぼ毎年増え続けています。2008年の乗客数は42,683人。2017年は47,034人で、ここ10年間で約10%の増加となっています。
田端駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探すかつての田端は流行の最先端でおしゃれな街だった
そんな田端の閑静な雰囲気や、高台から眺める風景が一時期、芸術家たちの中で評判となったことがあります。
明治時代の中ごろの田端は、雑木林や田畑が広がるのどかな農村だったようです。1889年、上野に東京美術学校(現在の東京芸術大学)が開校すると、上野に近い田端に、若い芸術家が移り住むようになりました。
最初に田端へ移り住んだのは洋画家の小杉放庵。1900年のことでした。その3年後には陶芸家の板谷波山が転居してきて、やがて板谷波山の教え子だった吉田三郎(彫刻家)が師を慕って金沢から上京して田端へ。その後は北村西望(彫刻家)や香取秀真(鋳金家)、山本鼎(洋画家)らが次々と居を構えるようになります。
こうして芸術に携わる人々が同じ地域に集まったことで、1910年には親睦団体「ポプラ倶楽部」が生まれ、テニスコートや西洋料理の店も誕生し、田端は「芸術村」として、当時の流行の先端をいく街となっていったのです。
文壇を支えるにぎわいと終焉
そんな田端にあこがれたのか、1914年には芥川龍之介が田端に住むようになります。さらに詩人の室生犀星も、金沢時代の幼馴染みだった吉田三郎との親交のため田端に居を構えました。
やがて芥川龍之介と室生犀星の交遊が始まり、二人を中心にして萩原朔太郎や堀辰雄、菊池寛、中野重治など多くの作家、詩人が集まるようになっていきました。田端は文士村と呼ばれ、大正期の文壇を支えるにぎわいを見せることになるのです。
しかし、1923年の関東大震災で被災したことによって、文士の多くは転出。さらに1927年、芥川龍之介が亡くなり、キーマンを失った田端文士村は終焉を迎えるのです。

田端文士村記念館。
北口駅前にある「田端文士村記念館」に足を運ぶと、詳しい資料が展示されています。
また、北区では芥川龍之介の旧居跡に実物大の書斎を復元、資料を展示する「芥川龍之介記念館(仮称)」の建設を計画中で、2023年開館予定です。
江戸の面影を伝える田端の古刹
ちなみに「田端」の地名は、文字通り「田んぼの端」の意味らしいのですが、田んぼと畑が広がる地ということで「田畑」が語源とする説もあります。
文献的には、16世紀に小田原北条氏が記した「所領役帳」に「江戸平塚田端在家」の文字があり、また、江戸時代初期の1634年には「田畑村の五百四十一石を寛永寺に寄進」した記録があり、「田端」「田畑」どちらの表記も古くからあったようです。
このように古くから集落があった田端には、歴史を重ねた古刹も点在します。芥川龍之介は、そうして古い寺をめぐって散歩するのが楽しみだったとか。
例えば与楽寺。江戸時代には、江戸六阿弥陀の寺として多くの参詣者が訪れたそうです。この寺の本尊である地蔵菩薩は、寺に押し入ろうとした盗賊を追い返したという伝説があり、賊除地蔵と呼ばれています。

赤紙仁王。仁王尊の姿が想像できないほど、赤紙が貼りつけられている。
興味深いのは東覚寺の赤紙仁王。門前に立つ一対の仁王像には、無数の赤い紙が、ところかまわず貼られており、「赤紙仁王」と呼ばれています。
この赤紙仁王は寛永18年(1641年)造立。病気や痛みに悩む人が、仁王像の自分の悪いところと同じ場所に赤い紙を貼って、病気平癒祈願をすることで知られています。
田端駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す鉄道ファンの聖地
駅の北側に鉄道用地が展開したことで、駅の北側と南側の行き来がしにくくなった感は否めませんが、この鉄道用地がニッチなニーズを生みます。「鉄道ファンの聖地」とさえいわれる、鉄ゴコロをくすぐるスポットが点在するのです。
駅のホーム東北側に隣接するのは、上野保線技術センター。レール輸送のヤードがあり、各種機関車や貨物車が出入りする様子が4番ホームからよく見えます。

田端ふれあい橋にある東北新幹線の車輪。
駅北口から線路を越えて東北側へ通じるのは、新旧の田端大橋。旧田端大橋は現在、歩行者専用の「田端ふれあい橋」となっています。
田端ふれあい橋の上には、東北新幹線の車輪や東北本線のレールとポイントの実物などがモニュメントとして展示され、また先の上野保線技術センターを見下ろす眺望が得られるようにした展望コーナーもあります。
橋を渡って突き当たりを左折、坂道を下りていくと、電気機関車の車両基地である田端運転所が広がります。
EF65、EF81などさまざまな電気機関車が並び、その先には東京新幹線車両センター。まさにマニアには圧巻の光景でしょう。

新幹線車両センター。
さらに先へ進むと、尾久車両センター。こちらは東北本線などを走る客車が停車しています。
この辺りの雰囲気は独特で「東京にこんな場所があったのか」といった意外性に驚かされ、鉄道マニアでなくとも、ぼんやり車両を見て過ごせてしまいます。
田端駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す更新日: / 公開日:2019.01.08

