池袋は、東京を代表する繁華街のひとつ。近年は住みたい街調査で上位にランキングされる人気の街となっています。そんな魅力ある街の起点となっている池袋駅。この駅には1日あたり55万9920人もの人が乗車し、全世界の駅でも新宿駅に次いで第2位のマンモス駅となっています。

しかし、今からさかのぼること115年前、開業した頃の池袋駅は、原野の中にポツンとたたずむ秘境のような駅でした。駅周辺には集落はなく、駅の乗客は1日あたり数名程度だったといいます。

そんな秘境の駅が、世界トップクラスの乗車数の駅へと、どのようにして発展していったのでしょう? 今回は池袋駅の歴史を中心にご紹介します。
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山手線内回りホームから埼京線ホームを見る

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池袋駅が開業したのは1903年(明治36年)。しかし、駅が誕生する以前、この地には鉄道の線路が敷設されていました。

 

1885年に開業した「日本鉄道品川線」です。日本で最初の私鉄であり、のちに多くの鉄道線を整備した会社「日本鉄道」によって開設されたもので、品川~赤羽間を結んでいました。

 

当時の鉄道は旅客輸送よりも貨物輸送に重点を置いており、この日本鉄道品川線も例外ではありません。それでも、品川~赤羽間には目黒・渋谷・新宿・目白の4つの駅が設けられました。

 

日本鉄道はさらにそれ以前の1883年、上野~赤羽~熊谷方面へ、現在の高崎線の前身となる鉄道を開業させており、翌年には上野~熊谷~高崎間が開業しています。この、上野~高崎間の鉄道は、群馬県の富岡製糸所の製品を、海外への貿易港である横浜へ輸送することを目的としていました。

 

また、1896年には、土浦~田端間に土浦線を開業しています。土浦線も、物資を輸送するという役割があり、当時関東近郊最大の炭鉱である常磐炭鉱で採れた石炭を東京圏へ輸送するための鉄道だったのです。

 

しかし、常磐方面からの列車は、田端駅からいったん赤羽駅へ移動し、そこから品川を目指すという遠回りのルート。そこで「赤羽~目白間のどこかに新しく駅を設けて、田端駅と直結する新線を開設しよう」ということになりました。

 

当初検討されたのは、目白駅の北側に雑司ヶ谷駅を新設し、そこから分岐して雑司ヶ谷~田端間を結ぶという計画でした。しかし測量したところ、計画線上に巣鴨監獄がかかる、ということが判明したのです。計画線は巣鴨監獄の敷地内を横切るという構想だったため、断念。

 

ちなみに巣鴨監獄は、1895年(明治28年)から1958年(昭和33年)まで、「巣鴨監獄」「巣鴨刑務所」「東京拘置所(巣鴨プリズン)」などと名を変えて存在し、その跡地一帯には現在、サンシャインシティが建っています。

 

さて、雑司ヶ谷駅新設計画に代わり、新たに構想されたのは、目白駅を分岐点として田端へ新線を通すというルートでした。しかし、目白駅周辺で住民の反対運動が起こってしまいます。また、目白駅は切通しの谷底に造られており、分岐線のための新しいホームと線路を建設するのには困難が予想される、といった問題もありました。

 

そうしてこの計画も中断されたのでした。

 

外回り山手線が池袋駅に入ってくる

外回り山手線が池袋駅に入ってくる

 

このような経緯から、当時信号所があった池袋に駅を新設する計画が浮上しました。その頃の池袋は原野が広がる寒村でしたので、住民も少ないため反対運動は起こりません。

 

また地形的にも平坦な土地で工事がしやすく、池袋からの路線計画なら巣鴨監獄も避けることができました。

 

開業間もないころの池袋駅。右側の線路が赤羽方面へのもの、左側は大塚方面へのもの。周辺には民家らしきものはない(「日本国有鉄道百年史」より)

開業間もないころの池袋駅。右側の線路が赤羽方面へのもの、左側は大塚方面へのもの。周辺には民家らしきものはない(「日本国有鉄道百年史」より)

 

こうして、田端方面を結ぶ新線(豊島線と命名)との接続駅として、池袋駅が開業されたのです。前述のように当時の鉄道は貨物輸送を目的としていたため、周辺に人家がなく利用者が見込まれない駅であっても問題がない、ということになりました。

 

むしろ、工事に関する支障がほとんどない「原野」であることが決め手となり、池袋に駅が造られることになったのです。現在の大勢の人が行き交う池袋駅の姿を考えると、意外としか言いようがありません。

 

1909年、開業から6年後の池袋駅周辺の図。図左の駅周辺には目立った集落は認められない。図右の施設が巣鴨監獄。この巣鴨監獄を避けて新線(豊島線)を通すため、接続駅の場所として池袋が選ばれた

1909年、開業から6年後の池袋駅周辺の図。図左の駅周辺には目立った集落は認められない。図右の施設が巣鴨監獄。この巣鴨監獄を避けて新線(豊島線)を通すため、接続駅の場所として池袋が選ばれた

 

日本鉄道はその後も各地に鉄道網を敷き、上野~青森の東北本線、上野~水戸~いわき~岩沼の常磐線、上野~高崎の高崎線など、現在のJR東日本の営業エリアをの大半を運行する、巨大な私鉄となっていきました。

 

このため、「有事の際など一企業である私鉄に国家の浮沈をゆだねるわけにはいかない」との理由から、1906年(明治39年)、大規模私鉄の国有化が行われます。「日本国有鉄道」、国鉄(JRの前身)の始まりです。

 

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駅の周辺が原野であることは、鉄道開通後の開発がやりやすいということでもあります。

 

大正時代になり、1914年(大正3年)には東上鉄道(後の東武東上線)、1915年には武蔵野鉄道(後の西武池袋線)が開業します。これによって駅の利用者は増えたものの、駅周辺の開発はさほど進まず、昭和前期までの池袋駅は郊外駅という雰囲気を色濃くしていました。

 

昭和前期頃の東京の城北地区で繁華な街だったのは、江戸時代から中山道沿いに茶店や飲食店が立ち並んでいた巣鴨と、王子電車との乗換駅であった大塚でした。特に大塚は、200名以上の芸者がいる花街で、さらに駅前には城北地区唯一のデパートである白木屋百貨店があり、にぎわいを見せていたのです。

 

この当時の東京北西部の繁華街といえば、百貨店なら白木屋のある大塚か、三越のある新宿、といった具合で、池袋駅はこうした繁華街へ向かうための、乗り換えの駅に過ぎなかったのでした。

 

池袋が繁華な街へと変貌するきっかけは、1935年(昭和10年)の菊屋デパート開業。このデパートを1940年に武蔵野鉄道が買収、武蔵野デパートと改称。

 

さらに第二次世界大戦の終戦からまもない1949年(昭和24年)、武蔵野鉄道が西武鉄道へ改称するのを機に「西武百貨店」に名前を変えます。当時の西武百貨店は木造モルタル2階建てでしたが、その後増改築を繰り返します。

 

これが引き金となって周辺には三越(2009年閉店)、東京丸物(現在のパルコ)などが1950年代半から60年代にかけて次々とオープン。西口には1962年(昭和37年)に東武百貨店が開業して、池袋は急速に発展していくのです。

 

つまり、街としての池袋の発展は1950年代以降ということで、山手線沿線の街としては、歴史は浅いということになります。

 

ところで池袋といえば「東が西武、西が東武」。東口に西武池袋線と西武百貨店があり、西口に東武東上線と東武百貨店があります。なぜこうなったのでしょうか。

 

東口には西武百貨店

東口には西武百貨店

 

まず、東武鉄道の前身である東上鉄道。「東上」鉄道は「東京」と「上州」を結ぶ鉄道として計画され、群馬県の渋川まで結ぶ予定で、とりあえず埼玉県川越まで開業しました。

 

池袋から川越へ西進する鉄道ということで、東上鉄道の池袋駅は、山手線池袋駅の西側に駅が設けられたのです。

 

東上鉄道はその後に東武鉄道と合併、東武東上線となりました。つまり東武東上線の「東」は「東京」の意味であって、「池袋の東」ではないのです。

 

西口には東武百貨店

西口には東武百貨店

 

一方の西武池袋線。こちらは武蔵野鉄道が前身で、当初は接続駅を巣鴨とする計画でしたが、計画が変更され池袋を起点として池袋~飯能間を結ぶことになりました。

 

この武蔵野鉄道も池袋から西進する鉄道でしたが、この当時池袋西口には既に東上鉄道の駅があり、その南側(現在の池袋西口公園の一帯)には東京府豊島師範学校と付属小学校があって、新駅を建設する土地がありませんでした。

 

そこで武蔵野鉄道は山手線を越えて大きくカーブ、池袋駅東口に駅を設置することになったのです。その後武蔵野鉄道は川越や多摩湖方面など、武蔵野の西部に路線網があった西武鉄道と合併、武蔵野鉄道は西武池袋線と名称が変更されることになるのです。

 

つまり「西武」池袋線の「西」は「武蔵野の西」が本来の意味で、これもまた「池袋の西」ではないのです。

 

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池袋は、「駅袋」という通称があります。池袋駅は、乗客数は国内トップクラスであるのに、周辺の市街地へ足を運ぶ人は多くはなく、駅利用者の大半は駅を乗り換えに使うか、駅直結の百貨店やショッピングモールの利用にとどまる、ということが長くいわれてきました。

 

駅利用者の行動が駅だけにとどまって、周辺にまでは及ばないということで、「駅袋」と呼ばれたのです。

 

池袋駅の乗客数は、JRのほか、西武池袋線、東武東上線、地下鉄各線を合わせると1日あたり約260万人、ともいわれます。

 

しかしながら、池袋の繁華街の中核をなし、映画館や飲食店、アミューズメント施設などが建ち並ぶサンシャイン60通りへ足を運ぶ人はその1割にも満たない、ということもいわれます。

 

現在も、池袋周辺では駅から徒歩5分程度で人影の少ない住宅地になるエリアが存在します。これが、同じマンモス駅でも新宿や渋谷などと異なるところ。

 

歴史的に見れば、これまでお伝えしたように原野の中に駅が誕生し、やがて複数の私鉄駅が完成してターミナルとなったものの、周辺の開発はさほど進まないまま時間がたち、その後私鉄会社によって駅直結の百貨店が誕生し、これが繁華街の足がかりとなったのが池袋という街です。

 

その意味では、池袋は、街の始まりから「駅袋」であり、それが長く続いてきた、というわけです。

 

とはいえ、池袋駅が生まれておよそ1世紀が経過し、現在、駅周辺では再開発が進められています。ようやく「駅袋」ではなくなりつつある街、池袋。池袋はどんな街に生まれ変わろうとしているのでしょうか。

 

次回は駅から外に出て、周辺エリアにスポットを当て、街の歴史とともにお伝えしていきたいと思います。

 

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更新日: / 公開日:2018.01.24