山手線の駅のなかで、駅や駅の周辺が最も劇的に変化しているのが品川でしょう。そもそも現在品川駅がある場所は、かつては海の中で、陸地ですらなかったのです。
明治時代初期、1870年代にこれを埋め立てて築堤し、駅と線路を造成。それから埋め立てが繰り返され、150年後の現代は、品川駅港南口には超高層ビルが林立する、最先端のビジネスステーションとなっています。
品川に150年間でどのような変化が起きたのか。駅と周辺の変貌の歴史をたどってみます。
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品川駅が品川区にないのはなぜ?
品川駅の所在地は港区高輪3丁目。品川区ではなく、港区にあります。
そもそも「品川」は、目黒川の下流部を指す河川名で、その河口に中世に開かれた港町が品川湊です。品川湊は江戸前の魚介類が揚がる漁港であり、米などの物流の拠点にもなっていました。
また、海苔の養殖も盛んに行なわれていました。浮世絵師・歌川広重の『名所江戸百景』にも、品川浦の海苔養殖の様子が描かれています。海苔養殖は江戸時代に品川で確立された技術で、せんべいやあられに海苔を巻いたものを「品川巻」と呼ぶように、品川の海苔は江戸庶民に親しまれていました。
歌川広重「名所江戸百景 南品川鮫洲海岸」。海上にある藪のように見える部分が海苔養殖の「海苔ひび」で、小舟を寄せて海苔採取の作業が行なわれている
品川湊の周辺は、東海道五十三次の「品川宿」として繁華な町でもありました。この「品川宿」は、現在の京浜急行線の北品川駅から青物横丁駅にかけての一帯。江戸時代からの人口密集地であり、町家が建ち並んでいました。品川宿には遊女も多く、旅人ではなく近隣の男性が遊びにやってくる風俗街としての性格もあったのです。
余談ですが、この品川宿で駕籠かきや馬子などに従事していた人々や、地元の荒くれ者たちが、暇つぶしのためサイコロ賭博などを行なっていた場所が「鉄火場」と呼ばれていました。
そして、江戸時代末期の安政年間(1854~1860)に、近海でマグロが大漁となり、これを海苔巻きにして鉄火場で出したところ、賭博を中断しないで食べられる、と好評を得たのが鉄火巻の始まりとか。ということで品川は鉄火巻発祥の地でもあるのです。
当初の品川駅はこの付近に建設する予定でした。しかし、「鉄道ができたら宿場が成り立たなくなる」と地元の反対運動が高まり、建設用地買収が進みません。結果的に市街地を避けた場所に駅が設けられることになりました。
これが現在の品川駅のはじまり。つまり品川駅は、本来「品川」と呼ばれていた場所から1kmほども離れた場所に建設されたのです。
その後、1878年に東京市に区政が敷かれた際に、品川駅の場所は芝区(後の港区)に組み込まれることになりました。これが品川駅が港区にある理由です。
海を埋め立てて建設した品川駅
安政4年(1857)「芝 三田 二本榎 高輪邉絵図」(部分)
図は江戸時代末期、1852年の品川付近の地図。図の上部からから右下まで通じる海岸沿いの道が当時の東海道。現在の第一京浜(国道15号)にあたります。
図の右下、Uの字を描くように流れて海へ注いでいるのが品川(現在の目黒川)で、その河口部が品川湊です。川の周辺のグレーに塗りつぶされた部分が東海道品川宿。
図の左上「薩州殿」とあるのは、薩摩藩島津家下屋敷で、現在はグランドプリンスホテル新高輪や、SHINAGAWA GOOS(シナガワ グース)になっています。
その下のブロックに「有馬中務大輔」とあるのは久留米藩有馬家の下屋敷で、現在は品川プリンスホテルとアクアパーク品川になっています。ということで、現在の品川駅は図中の「袖ヶ浦」の文字が読み取れる海の中あたり、ということになります。
品川駅はこの海を埋め立てて建設されました。線路は、海中に堤防を築き、その堤防上にレールを敷いたのです。こうして1872年に誕生したのがわが国初の鉄道でした。
当時の錦絵「東京品川海辺蒸気車鉄道之真景」を見ると、物珍しさもあったのか、東海道筋から蒸気機関車を見物する人々の様子が描かれています。
三代広重「東京品川海辺蒸気車鉄道之真景」。海中に築堤して線路を敷いた。画像右手に品川駅と思われる建造物が描かれている
品川駅の東側の埋め立てはその後も進み、大正時代半ばの1920年ころには鉄道の車庫が設けられました。後の田町車両センター、現在の、山手線新駅を含む品川再開発地域です。
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開発されていく品川駅東側の埋立地
昭和初期の1930年代になると、鉄道車庫からさらに東側まで埋め立てが進みます。
当初は原野だった埋立地に、1938年、「東洋一の規模」と詠われた「東京市営芝浦屠場」が開設されます。「屠場」は、生きた牛を運び込んで解体し、食肉として出荷する施設。
この開設により、東京各地にあった屠場は順次閉鎖され、芝浦屠場に業務が統合されていきました。その結果、品川駅の利用者は牛豚家畜関係者が増えていくのです。駅周辺には、こうした食肉関係者目当ての飲食店なども増えていきました。
ちなみに、「東京市営芝浦屠場」はその後も存続し、現在は「東京都中央卸売市場食肉市場」となり、毎日、牛や豚が運び込まれています。
1945年、終戦を迎えたこの年から住宅や工場などが建ちはじめます。
品川駅の東側は、かなり長い間、この「戦後から復興した昭和」の雰囲気を引きずっていました。都心部の駅周辺でありながら、大きな繁華街もなく、どちらかといえば、うらぶれた場末感があったのです。
急速に発展した港南エリア
そうした品川駅の東側に、1990年代初頭から、急速に変化が始まります。
最も大きな変化は、東京都中央卸売市場食肉市場からの出荷が鉄道からトラックなどに変わったことでした。これにより、市場周辺の輸送ターミナルだった鉄道地一帯が再開発の対象となり、線路が撤去され、「品川インターシティ」へと姿を変えていきます。
さらに5つのオフィスビルで構成された「品川グランドコスモス」、賃貸オフィスと店舗、シティホテルがある「品川イーストワンタワー」が完成。
この場所一帯が、少し前までは線路が敷かれていた鉄道用地であったことなど想像すらできないほどの変貌ぶりです。

品川インターシティ、品川イーストワンタワーなどが林立する港南口
東海道新幹線の品川駅開業は2003年。新幹線の改札口が港南口となったことで、港南口エリアはさらに姿を変えていきます。
多数の高層ビジネスビルが建設されていき、三菱重工やソニー本社など日本を代表する企業が拠点とするようになり、現在の品川駅港南口エリアは東京を代表するビジネスタウンへと変貌を遂げることとなりました。
タワーマンションも次々と建てられ、港南エリアの人口は急増していきます。

東海道新幹線の品川駅開業は港南口の様相を一変させた
品川駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す駅そのものも姿を変えた
品川駅の構造も、かつては不便なものでした。駅の東西を連絡する自由通路はなく、港南口と高輪口間の移動は、入場券を購入して駅構内を進むか、線路沿いに500mほど歩いて八ツ山橋で線路を渡り、第一京浜を線路沿いに北上する、ということで1㎞以上歩かなければならなかったのです。
山手線ホームから港南エリアへは、階段を下りて、地下道を歩くのが唯一のルートでした。地下道の上には京浜東北線や東海道線、横須賀線、新幹線などいくつもの線路とホーム、さらに貨物ターミナルや車両基地があったため、地下道は長く、その上狭く、薄暗いものでした。地下道の出口に改札口があり、当時は品川駅東口と称していました。
1998年にようやく最初の東西自由通路が完成するまで、港南エリアはアクセスも不便なエリアだったのです。

東西自由通路の完成が港南口を大きく変えた
現在の東西自由通路は2003年、新幹線品川駅開業に合わせて整備されたもの。
2004年には港南口に駅ビル「アトレ品川」がオープン。そして2005年には東京では初のエキナカ商業施設となる「エキュート品川」がオープン。駅構内コンコースも様相が一変しました。

東西自由通路に臨んで中央改札口がある
駅構内の郵便ポスト

中央コンコースに設けられた電車型の郵便ポスト
品川駅中央コンコースには、ちょっと変わったポストがあります。電車の形をしていますが、日本郵便のロゴもあり、集配時刻も明記されている現役の郵便ポストです。
デザインのベースとなったのは、かつて運転されていた「クモユニ」という形式の車両です。
1986年に郵便貨物が廃止されるまで、長距離の郵便物は鉄道によって輸送されていました。この郵便物専用貨物車両がクモユニです。クモユニは貨物線を走るため、品川~鶴見間の貨物専用鉄道線の「品鶴線」を走っていました。
これにちなんで郵便輸送車両の形をした「郵便ポスト」を品鶴線の起点を示す「0km 品鶴線」と書かれた「キロポスト」と並べて配置したのです。ポストつながり、というしゃれっ気あるもので、意味が分かると思わず笑ってしまいます。
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更新日: / 公開日:2016.10.14













