日本最初の壮大な洋風鉄道駅舎である東京駅丸の内駅舎。この駅舎が完成したころの丸の内の一帯は「原野」と呼ぶのがふさわしい荒れ地でした。
なぜそのような状態になったのでしょうか。今回は、丸の内の開発史をみてみましょう。
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かつては入江だった丸の内
現在の丸の内の一帯は、中世には東京湾が入り込んでいた入江でした。1590年に徳川家康が江戸入りしたときには、江戸城(現在の皇居)は江戸湾の波打ち際にあったのです。
「このままでは城下町を構築できない」と考えた家康はこの入江の埋め立てを始めます。入江の埋め立てが進み、一帯が陸化すると、このエリアは江戸城に組み込まれます。
そして、江戸城から近いことから、徳川の親藩(徳川家の親戚や縁者の大名)や譜代(江戸時代以前から徳川家の家臣だった大名)の屋敷が建てられるようになり、御曲輪内(おくるわうち)、あるいは「大名小路」とも呼ばれるようになりました。
このエリアには南北の町奉行所や勘定奉行の奉行所、評定所も置かれました。「丸の内」の「丸」は、城郭を構成する区画のこと。つまり江戸時代の丸の内は江戸城の城内だったのです。
1849年 丸の内地図
図は1849年の丸の内地区の様子です。図の右を上下に貫く川は江戸城外堀。現在の外堀通りで、その一部は現在の東京駅八重洲地下街となっています。
東京駅は右下の松平三河守上屋敷から、その上の水野肥前守、松平内蔵頭、松平丹波守、松平伯耆守、松平伊豆守、北町御奉行所と記されたあたり。
図上部の細川越中守屋敷の一帯が現在の丸の内オアゾ、松平周防守屋敷が新丸ビル、赤色家紋入りの松平内蔵頭屋敷が丸ビル。本多美濃守屋敷が中央郵便局(KITTE)に相当します。
安政の大地震と江戸城火事でさびれた大手町
江戸っ子が「外の津にないは大名小路なり」と自慢した、江戸城大手(江戸城の正面玄関口)の大名屋敷群でしたが、1855年の安政大地震で多大な被害を受けます。さらに1863年、江戸城本丸が台所からの出火で焼失すると、徳川幕府は本拠地を京都二条城に移転しました。
これによって大名たちも江戸屋敷を放棄して京屋敷へ移転するようになり、大手町の大名屋敷群は主を失って荒廃していくのです。
『江戸名所図会』の著者、斎藤月岑(さいとうげっしん)の日記によると、旧大名屋敷の廃墟が雑草が生い茂り、空き家となった番所に浮浪者が住み着いているといったことが書かれています。いってみれば、廃墟となった町の交番にホームレスが住み着いている、という状態です。
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明治維新後、大名屋敷は官有地に
明治維新後もかつての武家屋敷は管理する者とてなく、廃墟が広がるままでした。そこで、これらを取り壊して、一帯は官有地となります。大蔵省、内務省などの政府機関、兵舎、高官宿舎などが建てられました。
しかし、1872年に大火が起こります。和田倉門内の旧会津藩邸から出火し、折からの烈風にあおられ銀座から築地にかけての一帯がほぼ全焼。この大火で、木造建築だった丸の内の官舎や政府機関の建物は失われます。
ちなみにこの火災によって、耐火建築が求められるようになり、銀座一帯がレンガ造りの建物に変貌していくきっかけとなりました。
焼け跡となった丸の内の明治の再開発
丸の内一帯はまさに焼け野原となりました。そこで、広い面積を必要とする練兵場や陸軍の施設が設けられます。
しかし1888年、木造兵舎の老朽化が顕著となって、陸軍は麻布に、レンガ造りの兵舎の建造を計画します。これにより、丸の内の木造兵舎跡地約10万坪は売却されることになるのです。
陸軍は宮内省や東京府、財閥などに働きかけますが、交渉は難航。売却価格が高額なこと、皇居に近いため開発が躊躇されること、などが要因でした。
そうした状況で、1890年にこの土地を買い取ったのが、三菱財閥の2代目当主・岩崎弥之助でした。廃屋と雑草が生い茂る原野で交通の便は最悪という土地を購入した岩崎弥之助は「竹を植えて虎でも飼うさ」と冗談を言うほどだったといいます。
折からの不景気で、なかなか開発は進まず、一帯は三菱ヶ原と呼ばれ揶揄されたといいます。

復興された三菱第1号館
そんななか、1894年、三菱財閥の最初のビル「三菱一号館」が建造されます。三菱一号館の設計はジョサイア・コンドル。鹿鳴館や上野の岩崎邸、ニコライ堂などの設計で知られる、明治初期を代表する西洋建築家です。
赤レンガの三菱一号館には、三菱本社はもちろん、第百十一国立銀行や、当時の大商社・高田商会が入居しました。つまり日本初のオフィスビルということで、丸の内のオフィス街としての歴史は、三菱一号館に始まるといえるのです。
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一丁倫敦(いっちょうロンドン)
一丁倫敦と呼ばれた時代。現在の馬場先門付近。奥に旧江戸城が見える
三菱一号館に続いて、1895年には、日本で最初にエレベーターを設けたビルである三菱二号館が竣工、明治生命、東京海上が入居しました。そして1896年には日本郵船が入居した三菱三号館が完成します。
とはいえ、当時の丸の内にはこの三菱のビルがあるだけ。あたりはまだ大名屋敷跡の空き地が目立つ状態でした。なにしろ、秋になると大名屋敷跡に生える草をまぐさ(馬の飼料)とするために農民などが草刈りにやってくる、というほどだったのです。
当時の丸の内には郵便局もなく、日本橋や神田の郵便局まで足を運ばなければなりませんでした。不便きわまりないということで、1902年、三菱一号館では1室を無償提供して郵便局を誘致しています。これが後の東京中央郵便局のルーツとなるのです。
その後も三菱は開発を進めていきます。そして1905年ころには、馬場先門通りにレンガ造りの建物が建ち並ぶようになりました。この町並みは、ロンドンのロンバード街を思わせるということで、「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」といわれています。
その一方、同じ時期に中央ステーション(後の東京駅)建設のための土地買収が始まり、1908年から工事が始まります。そして1914年、東京駅丸の内駅舎が完成します。
このころ、丸の内には三菱二十一号館が誕生しており、丸の内は「三菱村」の様相を見せていました。荒れ地を購入した岩﨑弥之助の判断は正しかった、ということになります。
一丁紐育(いっちょうニューヨーク)

一丁紐育時代の建築が現存する明治生命館
東京駅が完成したことで、丸の内のオフィス街は拡大していきます。低層だったレンガ建築のオフィスビルは、7~8階建ての鉄筋コンクリートによる実用性重視のアメリカ式オフィスビルに変わっていきます。その代表が丸ノ内ビルヂング(旧丸ビル)でした。
大正末期から昭和初期の丸の内には、「丸ビル」「郵船ビル」「東京海上ビル」「日本工業倶楽部」「明治生命館」などの、当時としては高層のビルが建てられるようになり、この一帯は「一丁紐育」と呼ばれたのでした。
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高層建築の現代の丸の内に見る昔日の面影

第3世代のビルである新東京ビル。1958年竣工
丸の内の一帯は、この当時、ビルの高さが100尺(約31メートル)に規制されていました。この31メートル規制に基づいた戦前のビルは、1980年代まではかなり多く残っていましたが、1990年代以降は再開発により急変。
なかでも1999年、「一丁紐育」時代を代表する建物であり、また丸の内のシンボルでもあった丸の内ビルヂングが、解体され、地上37階建てに生まれ変わったことは象徴的なできごとでした。
現代の丸の内は30階建て以上の高層ビルが林立するオフィスタウンです。また、戦後の復興期に建てられた「第三世代」のビルもわずかながら現存しています。

KITTE(写真右端)。下層部はファサード保存で、旧建築の高さは東京駅の高さと一致する
現在の東京駅丸の内側に建つ、「丸ビル」「新丸ビル」「KITTE(東京中央郵便局)」などの建物は、外観が地上5階のあたりを境に異なっています。これは「一丁紐育」の時代の名残。特に「KITTE」は下層部の外観がかつての建物を保存する形で残されています。
古建築を保存・復元しつつ現代のニーズに合わせる

銀行協会ビル 。ファサード保存で、低層部の外観を保存
丸ノ内のビルには、ほかのエリアでは見られないことがあります。それは、かつての姿をわずかでも残そうとする試み。
「ファサード保存」といわれる建築。低層部の外装は昔日のまま保存し、内側に高層ビルを建てる手法です。。日本工業倶楽部会館、東京銀行協会ビルヂングなどがこの方法で建てられています。
また、1934年竣工で重要文化財の明治生命館では、建物をガラス屋根で覆って、周辺をアトリウムとしています。保存すべき古建築が現代の生活のなかで活かされている好例です。
丸ノ内最初のオフィスビルであった「三菱一号館」は、1967年に解体されました。そして2009年、解体から41年を経て三菱一号館の建物を忠実に再現した「三菱第一号館」が再建されました。
内部は美術館などになっており、多くの人々が訪れる丸の内のビュースポットになっています。

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更新日: / 公開日:2016.06.13












