歴史ある美しい町並みに今もなお残る武家屋敷

肉の芸術品と呼ばれる「松阪牛」で有名な三重県松阪市。この地を訪れる人が必ずと言っていいほど訪れる場所が『御城番屋敷(ごじょうばんやしき)』である。

織田信長や豊臣秀吉に仕え、歴史ファンの間でも人気の高い戦国武将・蒲生氏郷(がもううじさと)が、1588年(天正16年)に築城した松坂城。現在は石垣を残すのみとなっている松坂城跡から城下町を見下ろすと、ひと際目を惹く場所がある。それが石畳と槙垣が美しい『御城番屋敷』だ。

松坂城跡から見た『御城番屋敷』。石畳をはさんで東棟10戸、西棟9戸(当初は10戸)の長屋が並ぶ。現存する近世武士が暮らした長屋建築としては日本最大規模の貴重な建物だ松坂城跡から見た『御城番屋敷』。石畳をはさんで東棟10戸、西棟9戸(当初は10戸)の長屋が並ぶ。現存する近世武士が暮らした長屋建築としては日本最大規模の貴重な建物だ

“御城番”とはその名のとおりお城の番をする、つまり松坂城を警護する役職である。松坂御城番職に就いた武士20人とその家族の住居として1863年(文久3年)に建てられた御城番屋敷は、150年以上もの年月が流れた今もほぼ当時のままの姿を残している。

※「まつさか」の表記は町制施行時(明治22年)に「松坂」から「松阪」に変更

今では御城番職に就いた紀州藩士の子孫が維持管理

御城番屋敷を語るうえで、まずは現在の御城番屋敷の所有者であり維持管理をする合同会社「苗秀社(びょうしゅうしゃ)」の話をしたい。

時は450年程前の戦国時代。徳川家康の先鋒隊として武功をあげた横須賀党の面々が、苗秀社のご先祖様である。彼らは家康の十男・徳川頼宜の家臣として紀州藩の要地である田辺に入り、紀州藩では“田辺与力(たなべよりき)”として代々田辺に居住。藩主直属の家臣として田辺城主である安藤家を助勢する立場にあった。

藩主直属の家臣・直臣(じきしん)であることに誇りを持っていた田辺与力たち。安藤氏とは対等であるという考えだったのだが、230年ほどの歳月が流れた1855年(安政2年)、ある日突然安藤氏から田辺与力は安藤家の家臣、つまり藩主の家臣の家来である陪臣(ばいしん)であると決めつけられてしまう。

与力たちはこれに不満を訴え、藩に暇願いを出し藩士の身分を捨て脱藩。浪人生活を送ることとなる。

その後6年余り浪人生活は続くのだが、その間も与力たちの結束は揺るぐことがなく紀州藩への帰藩の嘆願をし続けた。紀州藩の菩提寺である長保寺住職の支援を受け、ついに1863年(文久3年)、浪人となっていた与力全員に紀州藩の飛び領地である松坂城の御城番という役職が与えられ、直臣として帰藩することができたのだった。当時の住まいが「御城番屋敷」だ。

しかしそれも束の間、1867年(慶応3年)大政奉還によって徳川幕府は終わりを告げ、武士の存続基盤が消滅。与力たちは家禄奉還制度によって与えられた現金や公債を持ち寄り、自分たちの象徴である御城番屋敷を守るために会社を設立。今後も協力して生きていくことを決めた。

田辺与力直系子孫の苗秀社・今村結美さん。誓約状(複製)は、脱藩時に与力20名により署名と血判が押されたものだ。今村さんのご先祖様の名もある田辺与力直系子孫の苗秀社・今村結美さん。誓約状(複製)は、脱藩時に与力20名により署名と血判が押されたものだ。今村さんのご先祖様の名もある

田辺与力のプライドと団結力でつくられた会社、それが「苗秀社」なのだ。現在も苗秀社は直系の子孫で構成され、御城番屋敷の維持管理をしている。

設立当初の会社内規には「わが党各家は永世変わらず、苦楽をともにし、家門の繁栄を図ることを主眼とする」とあり、また会社綱領では「紀州藩祖徳川頼宜や長保寺の住職海弁僧正の恩義を忘れない」と記され、今もその意思は受け継がれているのだ。

国の重要文化財『御城番屋敷』に暮らしながら守る

手入れの行き届いた槙の生垣と石畳が、風情ある美しい景観をつくりだしている。「垣間見る」という語源どおり、垣根の間から今の暮らしがチラリと垣間見える手入れの行き届いた槙の生垣と石畳が、風情ある美しい景観をつくりだしている。「垣間見る」という語源どおり、垣根の間から今の暮らしがチラリと垣間見える

築150年以上の御城番屋敷は、2004年に国の重要文化財として指定された。

じつはこの御城番屋敷は現在も住居として使用されており、多くの人々が日常生活を送っている。こうした歴史的建造物は、全国的にも例のないものである。

長屋は東棟に10戸、西棟に9戸の全19戸あり、うち苗秀社の社員の皆さん、つまり子孫の方々の住戸が4件。残りは賃貸物件として一般の方に貸し出されているというから驚きだ。

歴史的建造物に今も多くの人が実際に暮らしているのには、いくつもの理由がある。まず苗秀社のご先祖様が命がけで守り抜いた御城番屋敷をこれからも継承していくためには、維持管理費が必要であること。

そして住むことで建物の劣化にいち早く気づけることも、大きな理由だ。古い建物は、例えばシロアリの被害に遭ったり土壁が剥がれ落ちたりすることがある。ただ保存するだけでは、日本最大規模の歴史ある長屋建築の不具合に気づくのは至難の業だ。しかし日々生活を送っていれば、何かあったときに早急に修繕やメンテナンスすることができるのだ。

人が暮らし使うことで、愛着を持って守り継承していく。それが御城番屋敷なのである。

青々とした槙垣や植栽を眺めながら、静かでゆっくりとした時間を過ごせるのは、何とも贅沢だ。昔の人も同じような景色を見たのだろうか。前庭だけでなく、広い裏庭もある青々とした槙垣や植栽を眺めながら、静かでゆっくりとした時間を過ごせるのは、何とも贅沢だ。昔の人も同じような景色を見たのだろうか。前庭だけでなく、広い裏庭もある

現代の住宅は気密性も高く今の暮らしに合わせた間取りであるが、御城番屋敷にはそういった高機能さや便利さはない。

隙間風が吹くこともあるし、廊下などもない。段差もあるし、建具が壊れることもよくある。また重要文化財であるため、勝手に修繕することはできないし、家のDIYなどもっての外だ。

さらに年に1回火災警報器などの点検が入ることや火災訓練があること、そして観光客が訪れる場所であるため各自が責任を持って掃除をすることも入居条件のひとつである。

重要文化財での生活には、ある意味“不便さ”があるのだ。にもかかわらず「ここに住みたい」という人は後を絶たず、空家が出てもすぐに次の入居者が決まってしまう。定期的に「空きはないか?」という問合せもあるという。

今村さんによると、借主の多くは30代のファミリー層で、小さなお子さんのいるご家庭も多いそうだ。皆、この美しい町並みと歴史ある建物に魅力を感じ「ここで暮らしたい」「この環境で子育てをしたい」と入居を希望するのだとか。不便さよりも心の豊かさを求めているのかもしれない。

当時の暮らしを実感!松阪市が借り受けた屋敷内部を一般公開

築150余年とはいえ、現在までに何度か改築されているため、人が住んでいる住戸にはもちろん電気は通り、バス・トイレ・キッチンなど現代の設備が備えられている。住戸によっては、畳ではない部屋があったりサッシが入っていたりと、現代の暮らしに合わせた設えになっているのだ。

ただ西棟北端の1戸は松阪市が苗秀社から借り受け、当時の暮らしを感じることができるよう創建当初の姿に復元整備されている。無料で見学できるので、機会があればぜひ訪れてみてほしい。

一般公開住居は、当時の暮らしに思いを馳せることができるよう、土間やかまど、厠や古い調度品などがあり、電気照明もついていない。この雰囲気から、映画の撮影などで使われることもあるそうだ一般公開住居は、当時の暮らしに思いを馳せることができるよう、土間やかまど、厠や古い調度品などがあり、電気照明もついていない。この雰囲気から、映画の撮影などで使われることもあるそうだ
一般公開住居は、当時の暮らしに思いを馳せることができるよう、土間やかまど、厠や古い調度品などがあり、電気照明もついていない。この雰囲気から、映画の撮影などで使われることもあるそうだ江戸時代、武家にのみ許されていた「式台」。当時は位の高い人のみこの式台から家に上がることができ、低い人は右の土間へ続く玄関を利用したそう。現在は住戸によって式台の有無は異なる

団結力の強さで、藩や家族、そして武士としてのプライドを守ってきた田辺与力。そしてその意思を脈々と受け継ぎ、暮らしながら御城番屋敷を守る子孫の方々。取材をしながら、時代を超えた絆のようなものを感じた。

こういった歴史的建造物をより良い状態で後世へ伝えることは簡単なことではない。ましてや国指定重要文化財とあらばなおさらだろう。今後も苗秀社の皆さんのご尽力は必要不可欠であるとともに、御城番屋敷を愛し大切に使ってくれる人に入居してほしいと切に願う。

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