ルールがあってこそのスポーツ
さぁ、フットボールを始めよう。まずは、メンバー集めから。
では、何人にする?15人?11人?18人?7人?
世界大会の開催年だから、サッカーだと思ったら大違い。フットボールにもいろいろある。
敵のゴールを破るのと、待ち伏せを禁じるのは似たり寄ったりだが、それぞれのチームが別々の人数で勝手にゴールを決めてやるわけにもいかない。また、フットボールだからと言って、決して手を使っていけないわけでもない。
スポーツはルールがあってこそ成り立つのは、今さらながら、分かっている話しだ。
ところで、自由競争の社会では、市場の淘汰によって選ばれたものが残ってゆく。だから余計な規制をかけず、自由な市場の原理に任せれば市場は育成される。規制緩和と称してルールをなくすことを、近年の政治家がお題目のように言っている。
畢竟の知恵者が考え出している理論であろうから間違いはないと思うが、こと住宅の業界で考えると、常々、首を傾げたくなる。
自由競争であれば、試合にバットを持って参加するのも自由だ。現実にバットを振り回すスポーツも日本人は愛している。しかし、この試合会場内で繰り広げられるプレーは正視に耐えられるようなものではなくなる。混沌とした乱痴気騒ぎ、これが今の住宅業界のように見える。
そう、ルールがあってこそのスポーツであり、そこには正当な競争がある。自由という名ばかりで市場任せにしているのは、混沌という閉塞を招いている。そしてつまるところは、審判として統治するべき国も、単に責任逃れをしているだけなのかもしれない。
たとえば、こんな闘いが見られる
数年前に住宅の研修でアメリカに行ってきた。たくさん勉強になったが、感動したのは宿泊ホテル前の道路工事現場で見たことだ。使い古しの合板で醜く養生された仮設の道を歩かされた。やっぱり日本の方が丁寧だ。この時、膝を折って確認したのは捨て合板の厚さだ。その前の4~5階建ての見学現場で、アメリカでは12mmの合板しか使わないと説明を受けていたので、それを思わず確認したのだ。確かに12mmの合板であった。
単純だ。国が12mmの合板を使うというルールを決めたら、市場で流通する合板はほとんどが12mmとなる。その仕様が決まれば、合板メーカーは自由競争の中で生産性を向上させ、技術を開発して製造する。自由競争に勝つためには、品質とコストと情報網で勝負するしかない。
これが日本では、複雑だ。そもそも日本人の体躯に合わないと言って薄くし、5.5mm、7.5mm、9mm、12mm、12.5mmと市場に出回る。それぞれに製造する合板の仕様とロットが違うことは、コストアップの言い訳になる。さらに複雑になのは、各社で認定の実験をし、薄くても強度だけは出てしまう。本来ならば、材料が少なくなるのであるから安くなって当然なのに、特殊な認定をした材として、一般的なものよりも高く売られることになる。
アメリカよりも自由なことが、実は価格にも性能にも混沌を招くことになるのだ。
もちろん、明確な仕様のルールを定めていない審判団は責任を取る必要もない。そして各社がたくさん出す認定作業で儲かる組織ができあがる。
ちょっと乱暴だが、スポーツ競技と乱痴気騒ぎの違いのように感じられないだろうか?
差別をやめよう
そんなにこぞって認定を得ようとするなら、10倍も強い物をつくれば良いではないか。半分以下の価格でできる物をつくれば良いではないか。しかし結果的には、消費者には大した違いの分からない似たり寄ったりのものでしかない。そして価格だけは国の認定を傘に、高いものになる。そもそも、価格が安ければ儲からないし、10倍強くても市場では不要のものだ。
自由市場が生み出す閉塞感の競争であり、消費者の利益はどこかに飛んでいってしまう。
これを象徴するのが「差別化」という言葉だ。工務店へのコンサルティングやフランチャイズの勧誘でも良く見かける。しかし、些細な差別化がどれだけ消費者に利益を供与するだろうか。
似たような話しは家電の「コモディティ化」や薬品の「ジェネリック」というキーワードにもある。家電も薬品も、今や本当の差別化ができるのはわずかだ。商品に差が無くなれば、韓国や中国の安い家電が消費者に選ばれ、患者よりも医師を抱き込む不正が生まれる。企業にとっては死活問題だが、本来は消費者の利益が何よりも優先されるべきである。
差別化を求める企業の目線は、消費者を見ているのではなく、差別したい他社の動向を見ているのだ。消費者志向の興味に応じているのでなく、実情は惑わすだけで正反対だ。
そして、まるで自社の住宅だけが地震に強く、断熱が優れ、工法が優れているかのような広告を、規範となるべき大手メーカーが恥ずかしげもなく垂れ流している。広告は裏腹で、弱いというイメージを払拭するためのアピールと、消費者も考える必要がある。
何よりも差別することは、本来許されることではない。差別ではなく区別をするのなら分かる。生活者のライフスタイルやサブカルチャーを捉えて、消費者の志向を区別するマーケティングを行うことが大切なことだ。そして住まい文化を広げることにもつながる。
自由競争の始まり
今の住宅市場では、年間100戸以上を供給している企業約300社が全体の60%を供給している。同じデータを読み取って注文住宅の市場を分析すると、逆に年間100戸以下の企業が70%以上を供給していることが分かる。まさに住宅は「コモディティ化」の業界で、しょせん圧倒的に差別化ができるほどの技術がないのが現状だ。
でも、やはり自由競争があるからこそ、最終的に消費者の利益は最大限に導かれる。では、どのように自由競争の土壌をつくれば良いのか。それは、注文住宅市場の担い手である地元の建設会社が、ふしだらな乱痴気騒ぎに巻き込まれないようにすることだ。
それには国のルール作りが欠かせない。どんなフットボールをやろうとしているのかを、国が示すことだ。アメリカの住宅業界は「12mmの合板を使う」と構造は保証されるというルールで競争するゲームだ。その意味では、国が総合的な性能を保証しているのと同じだ。
日本の認定制度も同様に感じるが、本当だろうか。確かに定められた強度実験をして薄い合板や様々な工法を認めているが、部材というのは薄くなるほど寿命は短くなるものである。今の長期住宅を求める時代に適合しているのだろうか。国の保証を含めて、疑いは限りなくある。
棟梁が先代からの伝統を守り継いで、古習に従い建てている企業は貴重であり守らなければならないが、すでに市場では稀になった。モジュールにもバラツキは少なくなった。
その意味では、そろそろ国が標準仕様を定める時期が来たのではないかと思う。
そのヒントは、スケルトン・インフィルにあると思う。
いよいよ、フットボール並みの、自由競争の始まりとなる。
公開日:





