清水建設が約500億円を投じた新拠点に、“主役”の風格で立つ旧渋沢邸
清水建設は2025年4月から、同社のイノベーションと人財育成の拠点「温故創新の森 NOVARE(ノヴァーレ)」内にある「旧渋沢邸」の一般公開を行っている。
原則、毎週木曜日(第三木曜日および祝日や同社休業日などを除く)邸内と外周部を約90分のツアー形式で案内する。参加者はツアーの前後に、同じくNOVARE内にある「NOVARE Archives 清水建設歴史資料館」も見学できる。
「NOVARE」は「新しくする」を意味するラテン語。場所は、JR京葉線の潮見駅に近接する約3万2,200m2の広大な敷地だ(東京都江東区潮見2丁目8番20号)。地上2~4階建ての5つの施設から成り、総延べ面積2万2,300m2超。全体の投資額は約500億円に及ぶという。旧渋沢邸は、建物にコの字に取り囲まれた庭園内に“主役”の風格で立つ。
NOVAREが完成したのは2023年9月(※5施設完成は2024年3月)。メディア上では昨年夏ごろから旧渋沢邸の移築が話題になっていた。だが、今年の春までは関係者のみの限定公開で、一般公開が始まった春以降も人気が高く、なかなか予約がとれない状態。筆者は見ることができていなかった。
今回、取材しませんかと声をかけられ、「はい、喜んで!」と見に行ってきた。
渋沢栄一の新1万円札が発表される前から進んでいた移築計画
10年前であれば「渋沢って誰よ」というところから説明しなければならなかったと思う。が、今はもうそこの説明はサラッとで大丈夫だろう。2024年7月に発行された新1万円札の顔の人、渋沢栄一(1840~1931年)だ。
「日本の資本主義の父」とも呼ばれる渋沢は、1840年に現在の埼玉県深谷市の農家に生まれた。大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わった後、民間の経済人として活動をスタート。第一国立銀行(現 みずほ銀行)や東京株式取引所(現 東京証券取引所)など約500の企業の設立・運営に携わった。吉沢亮が渋沢を演じた『青天を衝(つ)け』(2021年のNHK大河ドラマ)で見たという人も多いだろう。
旧渋沢邸は、場所を変えながら渋沢栄一と渋沢家が四代にわたって住み継いだ邸宅である。それをNOVAREに移築した。1万円札や大河ドラマで渋沢栄一が話題になったから移築したのだろうと思ってしまうが、もっと前から計画されていた。
日本の「擬洋風建築」の先駆者・二代清水喜助
筆者が相当なミーハーであることは間違いないが、有名人の邸宅なら何でも見たいわけではない。筆者は、この住宅を生み出した2人の設計者の“愛”をこの目で見たかったのである。
1人目は清水建設(かつての清水屋)の二代目店主である二代清水喜助(きすけ、1815~1881年)。
名前の前に「二代」と付くのは、創業者の名前も清水喜助で、二代喜助はその婿養子だからだ。初代喜助が伝説の棟梁だったことは言うまでもないのだが、筆者のような近代建築好きが惹かれるのはむしろ二代喜助のほうだ。二代は大工技術だけでなくデザイン力が飛び抜けていた。
旧渋沢邸は1棟の建物だが、実際は複数回にわたってつくられており、二代喜助は第1期にあたる「表座敷」(中央部分)を渋沢栄一本人に依頼されて設計・施工した。
二代喜助の元の名前は藤沢清七。
清七は初代喜助に腕を認められ、43歳の時に清水屋と喜助の名を継ぐ。1859年に横浜港が開港すると、外国人技術者の下で工事をするようになり、彼らから西洋建築を学んだ。
二代喜助は日本の伝統技術をベースに、和洋折衷様式の擬洋風建築を生み出し、日本の近代建築の先駆けとなる3つの建物を完成させた。「築地ホテル館※」(1868年)、「第一国立銀行(旧 三井組ハウス)」(1872年)、「為替バンク三井組」(1874年)である。(※築地ホテル館は基本設計を米国人建築家リチャード・P・ブリジェンスが担当)
これがどうすごいかというと、日本の“建築家第一世代”である辰野金吾は1854年生まれ。辰野が出世作である「日本銀行本店」を完成させたのは1896年だ。二代喜助は辰野よりも約40年先に生まれ、約30年早く西洋風の近代建築を設計・施工してしまったのである。海外留学はもちろん、西洋建築の教育も受けていないのに。
日本の歴史では、このように大工棟梁が見よう見まねでつくった西洋風の建築を「擬洋風(ぎようふう)建築」と呼ぶ。専門教育を受けていないから「擬(もどき)」だというのなら、大学で建築を学んでいない筆者は「擬建築ライター」だなといつも思うのだが、それはともかく、先の3つの建築(築地ホテル、第一国立銀行、為替バンク三井組)は「二代喜助の三大擬洋風建築」とも呼ばれていてかっこいい(清水建設のサイト参照)。
「表座敷」は二代清水喜助の現存する唯一の建築
二代喜助は渋沢よりも25歳上。2人の間に信頼関係が生まれたきっかけは、二代喜助が1872年に完成させた第一国立銀行だった。渋沢が初代総監役と頭取を務めた日本最初の銀行だ。東京・兜町につくられたこの建物は、もともとは三井組の銀行として計画されたが、国立銀行条例の施行によって第一国立銀行に譲渡された。
木造2層の洋風建築の上に、日本伝統の城郭を思わせる塔屋をのせた外観は、「開化の建築」とも呼べる新しい建築の姿だった。渋沢はこの建物について、「わが国におけるもっとも最初のそして他に類の無い銀行建築である」と述べ、二代喜助を高く評価。以後、絶大な信頼を寄せるようになった。
渋沢が居宅を構えた東京府深川福住町(現 江東区永代)に、二代喜助の設計・施工によって「表座敷」が完成したのは1878年。第一国立銀行が完成した6年後だ。このとき渋沢はまだ38歳。二代喜助は円熟期の62歳だ。
NOVAREに移築された表座敷を見ると、これみよがしなところが全くないことに驚く。西洋風が得意だったはずの二代喜助だが、檜(ひのき)造りの日本家屋。西洋っぽいのは、2階に上る階段の1つが四角いらせん状であることくらい。かといって、数寄屋的な凝った和のディテールにあふれているかというとそうでもない。いい材料を使って丁寧な仕事を重ねた印象だ。おそらく、それが渋沢の要望だったのだろう。
二代喜助は表座敷の完成から3年後の1881年に、65歳で亡くなった。表座敷は、現存する二代喜助の唯一の建築である。
30年にわたって清水組の相談役を務めた渋沢
第2期以降の話をする前に、二代喜助の没後の話をしておく。1881年に二代喜助が亡くなると、清水満之助(まんのすけ)が三代店主に就任する。二代喜助は、満之助の経営者としての才覚と温厚誠実な人柄を評価し、娘婿に迎え入れていた。
ところが満之助は1887年に34才の若さで急逝してしまう。わずか8才だった長男の喜三郎が清水満之助店(清水組)を継ぐことになった。
この時、満之助の遺言により、渋沢に相談役就任を依頼。渋沢はこれを引き受け、1916年にその役を辞するまで、30年にわたって清水組の経営を指導した。
本題の旧渋沢邸から話がそれるが、東京都北区の飛鳥山公園内の旧渋沢庭園に、国の重要文化財に指定された「晩香廬(ばんこうろ)」という建物がある。
渋沢は1916年、77歳で実業界からの引退を決めた。その際、清水組の四代当主である清水満之助(8歳で当主を継いだ喜三郎)は、渋沢のために技術の粋を尽くした小亭をつくり、家具や調度品とともに贈った。渋沢はこれを大変気に入り、自作の漢詩の一節「菊花晩節香」にちなみ、「晩香廬」と名付けた。晩年を通じてこの場所をレセプションルームとして愛用し、国内外の賓客をもてなした。
設計を担当したのは、現在の清水建設設計本部の基盤をつくった清水組五代技師長の田辺淳吉(1879~1926年)。2005年に国の重要文化財に指定され、一般公開されている。
…というのが、筆者が旧渋沢邸に関して注目する1人目の建築設計者、二代清水喜助と、渋沢栄一との深いつながりについてである。なぜ、清水建設が1万円札の渋沢の家を自社の新拠点に移築したのかがわかっていただけただろう。
ここまででかなり長くなってしまったので、筆者が注目する2人目、増築設計の中心になった西村好時(よしとき)については後編で。
後編を読む→「旧渋沢邸」の品の良い増築はさすが西村好時。現・清水建設の“令和の移築”は先人たちへの愛 ~ 愛の名住宅図鑑・特別編「旧渋沢邸」(後編)


















