歴史的に見ると、池袋は原野に造られたため、その後の駅周辺の発展は東西それぞれで独自に行われました。そのため、いつしか問題になっていったのが、駅と線路による東西の分断でした。
池袋の街の発展は、駅の東西の連絡をいかにスムーズにするか、という問題を解決するための試行錯誤の歴史でもあったのです。そこで今回は、駅の東と西を結ぶため、池袋が歩んできた歴史をご紹介しましょう。
■過去記事
【山手線の魅力を探る・池袋駅 1】原野の中の秘境の駅だった? 池袋駅の歴史
【山手線の魅力を探る・池袋駅 2】再開発事業が進行中。東口エリアの今と昔
【山手線の魅力を探る・池袋駅 3】文教都市、アートのまち。西口エリアの今と昔

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改札口を東西自由連絡通路に設ける。西口と東口の連絡をスムーズにすることは池袋の悲願
池袋駅は、地上2階にあり駅の南西側に出るメトロポリタン口を除けば、全ての改札口が地下に設けられています。
いずれも改札口を出ると東西自由連絡地下通路。地下通路は、北通路、中央通路、南通路と3本があり、JRの改札口はそれぞれ北改札口、中央1改札口・中央2改札口、南改札口が設けられています。
これら3本の通路のほか、北通路と中央通路、中央通路と南通路を連絡するための通路が4本あり、地下通路はより複雑になっています。
その状態は、まるでダンジョン。改札口から地下通路に出ると、どの通路も雰囲気が似ているため自分のいる場所がわからないということがあります。
次に紹介する写真を見ても違いがわからないほど。しかしこれは、駅と線路によって分断された東口と西口の連絡をスムーズにしようという願いの結果、でもあるのです。



上:南通路、中央:中央通路、下:北通路
地上駅としてスタートした池袋駅。周辺の発展とともに東西の連絡が問題になっていった
池袋駅が誕生した明治時代末期には、駅の周辺は原野といっていい状態で、しかも鉄道の運行も頻繁ではありませんでしたから、駅の誕生によって東西が分断されるということはありませんでした。
こうした鉄道の黎明期、線路を横断していた道が二つあります。それらの道は、現在、駅の南にある「ビックリガード」と、駅の北側にある「ウイロード」に姿を変えて、それぞれに歴史を伝えています。
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「ビックリガード」。何に「ビックリ」する?
ビックリガードとは、池袋駅の南側、豊島区南池袋1丁目と同区西池袋2丁目を結ぶ架道橋で、正しくは都道池袋架道橋(池袋ガード)といいます。
ガード下は4車線の車道とその両側に歩行者専用通路。ガードがくぐる線路は13本。JRは山手線外回り・内回り、埼京線上下線、湘南新宿ライン上下線、それに待避線、保線区用の古い線路2本。さらに西武池袋線の上下線が4本。
それだけに長いガードでおよそ102mに及び、ガード途中には交差点もあるという変わり種です。このビックリガードは、古くからあった東西を結ぶ道がルーツになります。
ガードが誕生したのがいつなのかは不詳ですが、国土地理院の地図を調べると、1919年(大正8年)の地図ではガードはなく踏切で、1929年(昭和4年)の地図では線路をくぐって道路が通じているように見えるので、大正末期~昭和初期に建設されたと思われます。
上:1919年の地図。まだガードはない、下:1929年の地図。道路が線路をくぐっている
このガードは、入口から出口が見通しにくい構造だったようです。また、ガードの途中で別の道が合流する特殊な形態にもなりました。
そして、ガード下から線路が見えるタイプの架道橋であったため、電車が通過するたびにものすごい轟音で、通り抜ける人がビックリしたり、荷馬車の馬が暴れるほどだったといわれており、ビックリガードと呼ばれるようになったとされています。
ほかにも、入口から出口へ見通しがきかないうえに合流する道があって出合い頭にぶつかりそうになってビックリ、など名前の由来には諸説あります。
しかし、そうした難点に目をつぶってでも、駅の東西を連絡する道を作りたかった、そういった意思をこの「ビックリガード」には感じるのです。
ビックリガードは当初は狭い道で、車道と歩道の区別もありませんでした。しかし、1950年代になると、池袋駅周辺は、自動車も増え、渋滞がみられるようになっていました。
しかし、池袋駅周辺に人と車が増えたにもかかわらず、当時は、駅の東西を自動車で行き来できる規模の大きな道路がありません。そこで1959年(昭和34年)、ビックリガードの拡幅工事が開始されました。
そして1963年(昭和38年)、都道池袋架道橋として全面開通。道幅も広く歩道なども整備され、利用しやすいガードとして生まれ変わったのです。ということで、現在のビックリガードには、「ビックリ」の要素はありません。
現在のビックリガード。車道と歩道が分離している。途中でカーブしており、出口が見えない
線路をまたぐ「池袋大橋」の完成が東西連絡と交通障害の解消に大きく影響した
ビックリガードの改修に続いて、駅の東西を結んで自動車が行き来できるルートとして設けられたのが池袋大橋です。
池袋大橋は池袋駅から北へ400mほどのところにあります。1966年(昭和41年)に開通。東武東上線、JR埼京線、山手線、湘南新宿ライン、池袋運転区入出庫線をまたぐ跨線橋で、2車線の車道とともに歩道も設置されています。
この跨線橋が開通する以前、この場所には第二鎌倉踏切という踏切がありました。山手線や東武東上線など9本もの線路をまたぐ全長約70mにおよぶ踏切で、道幅も狭く、「開かずの踏切」となっていた踏切です。
1955年(昭和30年)の調査では、8時から20時までの12時間のうち、踏切の遮断時間は約7時間30分にもなり、人が活動する時間のおよそ6割が閉まっていたのです。
池袋大橋の完成は、この交通難所を解消し、池袋の発展に大きく貢献した出来事でした。
池袋大橋は、多くの線路を渡り、殿舎を見下ろせるため、鉄道ファンがカメラを持って訪れる
ルーツは江戸時代の街道という「ウイロード」。アート空間に再生される事業が始動
池袋駅の構内ではなく、歩行者専用道として池袋の東西を結ぶのが、東口パルコ北側と北口付近を結ぶ歩行通路の「ウイロード」。正式名称は「雑司が谷隧道(ずいどう)」といいます。
このウイロード、ごくありふれたガード下の連絡通路、といった印象の地下道です。しかし、江戸時代の「雑司が谷道」がそのルーツという古い歴史をもっています。
高田村(現在の豊島区高田)や雑司が谷から、中山道の板橋宿へと通じていた道なのです。中山道板橋宿は江戸時代から栄えた花街で、板橋宿へ遊びに行く人々が通った道筋のひとつがこの雑司が谷道でした。
雑司が谷道は、1885年(明治18年)に日本鉄道池袋駅が開業したときには踏切で線路を渡っていました。しかし、大正時代の地図では、雑司が谷道は跨線橋で線路を越えるかのように描かれています。
1925年(大正14年)、雑司が谷道は、線路の下をくぐる現在の形の通路になりました。しかし次第に街道のとしての性格は薄れ、西口と東口との連絡通路の性格を濃くしていきます。
そして1986年(昭和61年)に改修され、「W(WEST:西口)とE(EAST:東口)との通路」「私たちの道」などの意味を込め、「WEロード」の愛称が命名されました。この道も、駅の東西を結ぶために重要な位置を占めているのです。
上:1909年の地図では、雑司が谷道は踏切、下:1919年の地図では歩道橋のような形式
ウイロードは多くの人に利用されている通路ですが、昭和の改修から30年以上が過ぎて老朽化が進み、うす暗く、漏水することもあるなど、古めかしい通路となっています。
明るく快適な空間にしようと、再生計画が始動しました。美術作家の植田志保さんが豊島区民の意見を取り入れながら、豊島区の歴史と文化を表現したアート空間として、2019年秋に生まれ変わる予定です。
ウイロード。老朽化のため、2019年度完成予定で改修工事が行われる
地上駅から地下駅へ 池袋駅の大きな変化
池袋駅の大きな転機は、1954年(昭和29年)。営団地下鉄(現在の東京メトロ)丸ノ内線の開業がきっかけでした。
それまでは池袋駅は地上駅で、東武東上線・西武池袋線との乗換は地上の移動だけで済んでいたのですが、地下鉄駅が誕生したことで地下の乗り換え通路が必要となったのです。
そして、池袋駅は地上駅から現在のような地下駅へと変わっていくのです。ちなみに丸ノ内線は当初仮設ホームで営業していましたが、1960年(昭和35年)、現在の場所にホームが完成します。
そして同じこの年、国鉄(現在のJR東日本)池袋駅構内に中央地下道が開通。冒頭に記したような、ほとんどの改札口を地下に設置し、それぞれの改札口が東西連絡通路につながるという現在の池袋駅の構造になっていくのです。
池袋駅の地下化が進んだことによって、それまで開かずの踏切が開くのを待っていた駅の東西連絡は、飛躍的に向上しました。そして6年後の1966年(昭和41年)、先に述べた池袋大橋の開通によって、現在の池袋駅と周辺の原型が完成するのです。
現在、冒頭に示した北通路・中央通路・南通路と、ウイロード、ビックリガード、池袋大橋によって、池袋駅の東西を結ぶルートは、利用者にストレスを感じさせないレベルにはなっています。
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新しく駅の東西を結ぶ「池袋駅東西連絡通路(東西デッキ)」プロジェクトと、ビックリガード上空デッキ
池袋駅がある豊島区では、池袋の東口エリアと西口エリアを歩行者デッキでつなぐ「池袋駅東西連絡通路(東西デッキ)」計画があり、2020年度からの着工が予定されています。
また、現在、2019年度中の完成を目指し、駅東口のビックリガードに面したところに、地下2階、地上20階のビルの建設が進められています。西武鉄道旧本社跡地の再開発事業で、建設中の建物は「ダイヤゲート池袋」。
商業施設とオフィスが入る予定ですが、特徴は、西武池袋線の線路上をまたぐようにビルが建てられていることです。ビルの下部がトンネルのようになっていて、西武池袋線の電車がくぐり抜けるという構造です。
この再開発プロジェクトのもうひとつのポイントが、線路上空も一体的に活用するプロジェクト。ビルの2階に建設されるデッキと合わせた「ビックリガード上空デッキ」の建設も進行中です。
このビックリガード上空デッキは、先に述べた「東西デッキ」と接続する計画で、近い将来、池袋の東西連絡はよりスムーズに行き来できるようになるでしょう。
このように東西の連絡が大きなテーマである池袋の街ですが、2019年には、池袋駅東口周辺と西口周辺の主な施設などを周遊する電気自動車(EV)バスが運行される計画もあり、今後は回遊そのものも池袋の楽しみ方の一つになりそうです。
※参考:『2004年度第1回企画展 えきぶくろ~池袋駅の誕生と街の形成~』(豊島区立郷土資料館)
建設中のダイヤゲート池袋。ビックリガード上空デッキの工事が進む
更新日: / 公開日:2018.09.07














