実現に向けて具体的に動き出した不動産ID
「日本の不動産取引は商慣習も含めて複雑でよくわからない」という海外投資家の声をよく聞くが、これは例えば日本の不動産に住所(住居表示):建物を特定するための記号と、地番:土地を特定するために付与された番号があることや、その表記の“ゆれ”:数字か漢数字か、町丁目かハイフンかなどの違いがあり、誤記載なども含めて不動産を特定することすら覚束ないケースが少なくないためだ。
不動産IDとは、こういった不動産取引に関するハードルを解消するため、国の方針としての「データ駆動型社会に向けた情報の整備・連携・オープン化」に沿って2020年に打ち出された1つの不動産&一筆の土地単位に付与される固有の番号記号のことだ。固有といえば既に不動産登記簿には13桁の番号が付与されているから不要ではないかとの指摘を受けそうだが、この13桁の番号にさらに4桁の特定コードを追加して、例えば住所の表記ゆれや同一住所・地番に複数の建物がある場合でも一義的に不動産を特定できるようにする。さらに、このIDに建物の修繕履歴や売買履歴、インフラ整備情報などを紐付けておけば、不動産取引の際に時間や労力をかけて事前の情報収集を行う手間を一気に省くことが可能になる。
不動産の特定と関連情報の一元管理が可能になれば、不動産取引時の準備に必要な情報がほぼすべてこの不動産IDに集約可能だから、契約までの期間短縮やコスト削減などに大いに効果を発揮することだろう。しかも不動産IDは、国が所有者の特定や納税状況など不動産を管理するために付与するものではなく(もちろんそれも可能だが)、誰でも活用可能なオープン情報とするので、日本の不動産は魅力的だが情報収集が面倒で契約も複雑だからとこれまで敬遠していた海外マネーをさらに呼び込むきっかけにもなることだろう。いわば、不動産版のマイナンバー(カード)というわけだ。また、LIFULL HOME’Sなど不動産情報サイトに掲載されている住宅の重複や履歴確認もこの不動産IDと連携させれば一気に進むから、購入や賃貸を希望するユーザーにとってもメリットが大きい。
ただし、ここまで不動産情報の特定および一元化を実施すれば、当然のことながら個人情報との結びつきや法令および公序良俗に反する利用の制限など、予め留意しておくべき事項も相応に増えていくことが想定される。
マイナンバー制度はコロナ感染の急拡大によってその取得が大きく進展したが、コロナ以前は個人を特定されるとか個人情報を国に管理されるなどの懸念が取り沙汰され、その有用性よりもリスクがクローズアップされた。不動産IDは、現状では国交省から中間とりまとめが公表された段階で、その実現にはまだ時間を要するものとみられるが、現時点で導入のリスクや情報一元化のリスクはないのか、不動産政策全般に詳しい専門家の見解を聞く。
今回の時事解説論旨
論点:不動産の特定と関連情報の一元管理が可能な不動産IDだが、現時点で導入のリスクや情報一元化のリスクはないのだろうか?
清水氏:本当に意味のある不動産IDを整備できるのか、注意深く見ていかないといけない
矢部氏:ルールとそれを支える技術情報、政府部門への信頼醸成が肝心
以下、両氏のコメントを見ていこう。
本当に意味のある不動産IDを整備できるのか、注意深く見ていかないといけない ~清水 千弘氏
清水千弘:一橋大学ソーシャル・データサイエンス教育研究推進センター 教授。1967年岐阜県大垣市に生まれる。東京工業大学理工学研究科博士課程中退。東京大学博士(環境学)。専門は、指数理論・不動産経済学。麗澤大学教授、日本大学教授等を経て現職。麗澤大学国際高等研究機構副機構長・学長補佐を兼務する市場が効率的に機能し、資源配分機能が作用するためには、情報の完全性が要求される。しかし、現実の市場において、完全な情報に裏付けられた市場など存在しない。とりわけ不動産市場は、経済価値の測定において、最も測定が困難な市場と言われてきたように、統計の専門家であったとしても、不動産の情報を正しく解読し、その価値を再現していくことは困難なのである。つまり、不動産市場は、情報の整備が極めて困難な市場の一つであると言ってもよい。ましてや、一般消費者からすると、ほとんど解読が不可能な市場ともいえる。つまり、「情報の非対称性問題」が発生する典型的な市場といってもよい。
不動産市場に潜む「情報の非対称性」問題といったときには、不動産の品質に関する情報の欠如を連想することが多い。不動産においては、立地や建物特性といった情報である。しかし、経済市場において情報とは、品質だけでなく、それに対応した価格も重要となる。古くから、不動産市場の情報整備の重要性が指摘され、履歴情報の整備に取り組まれたり、重要事項説明を拡大したりしてきた。しかし、依然として取引価格情報も品質情報の整備も不完全である。むしろ、その整備に向けての政策的な取組みは、後退してきているとも感じていた。しかし、近年において、新しい一歩を踏み出そうという兆しが見えたのが、「不動産ID」の整備である。
不動産IDが整備されたからといって、経済市場でいう品質と価格に関する情報が整備・開示されるわけではない。情報の整備とは何かということを考えたときに、①すでに存在している情報を開示する、情報がないときには、②情報を生産する、という段階がある。さらに、市場が成熟してくれば、③氾濫する情報を統合することで、情報の流通を高めていくということも必要である。①と②が、様々な軋轢の中で断念されてきた政策的な対応を振り返ったときに、不動産IDは、③の氾濫している情報を統合するということだけでも実現して、少しでも情報の整備段階を高め、市場の透明性を高めていくという方向は、大きな一歩かもしれない。
不動産IDが整備されれば、ポータルサイトなどのおとり広告や、物件の名寄せなどに貢献できるといわれている。しかし、IDの整備の副次的な効果にしかすぎず、別の手段をもっておとり広告をなくし、名寄せを行えばよいだけである。また、不動産と様々な情報との接続コストが低下されるといわれるが、不動産は点情報であるのに対して、地域情報などは面情報であるため、地域選択に関わる情報との接続への貢献はない。
現在は、不動産IDの整備の大枠は示されているが、どのような市場を目指し、どのように進めていくのか? 政府のベース・レジストリに関する検討がとん挫している現状を見ると、現在の設計において、本当に意味のある不動産IDを整備できるのか、今後、注意深く見ていかないといけないものと考えている。
ルールとそれを支える技術情報、政府部門への信頼醸成が肝心 ~矢部 智仁氏
矢部 智仁:合同会社RRP(RRP LLC)代表社員。東洋大学 大学院 公民連携専攻 客員教授。クラフトバンク総研フェロー。エンジョイワークス新しい不動産業研究所所長。リクルート住宅総研 所長、建設・不動産業向け経営コンサルタント企業 役員を経て現職。地域密着型の建設業・不動産業の活性化、業界と行政・地域をPPP的取り組みで結び付け地域活性化に貢献するパートナーとして活動中基調記事にもあるように、不動産IDにより一義的に不動産の特定が可能になれば建物や土地の修繕履歴や売買履歴、インフラ整備情報といった周辺情報と対象不動産との紐付けが容易になり、不動産事業者が取引に必要な情報集約のための工数や時間、費用の軽減により業界の生産性向上に役立つとされている。業界の生産性向上は取引当事者である消費者にとっても情報の非対称性の解消が進むことで安心、安全な取引の実現につながる。不動産取引に関わる社会的利益の拡大が大いに期待できることは既に様々なところでいわれている通りだ。
さらに「可能性」の論点として、不動産IDがインフラとして共通ツールとなれば、例えばZIPコードに代わる物流の際の宛先情報として、あるいは高さや形状など建築物情報と連携で自動運転制御のための基盤情報として活用されるなど不動産事業者の生産性向上や取引当事者の利益だけにとどまらない社会全体の効率アップ、新たな価値創造への期待も膨らむ。
マイナンバーでの議論(例えば個人情報を国や第三者に閲覧・把握される、管理されるといった懸念に対する否定など)も然り、情報の連携によって個別性や秘匿性の高い情報へのアクセスが容易になることで生じる不安への指摘があることは理解している。しかし人口規模や世帯構成など将来の構造変化に適応するため、社会全体の生産性向上を図るべきだということを大前提とすれば、仮に不安(その背景にある不利益)があったとしても、社会的利益が不利益を上回るのであれば、IDを軸とした情報の紐付けによる危険の想定ばかりに目を向けた議論に終始することは非合理だと考える。ID導入とその効果を得るために大事なことは不正利用などへの対処ルールが公開され共通認識となり、安全性を支える技術情報が正しく理解され、そして何より政府部門がルールを正しく運用していることへの信頼醸成が肝心だ。
「ルールとそれを支える技術情報、政府部門への信頼醸成」という意見は、数年前に訪問した電子国家の先進国といわれるエストニア視察で得た知見をもとにしている。エストニアではPINの下に政府部門が持つさまざまな情報の紐付けが可能になっており、さらに民間企業も自社の事業(サービス提供)を目的にアクセスできるようになっている。その状態に「信頼」を与える基盤がルールと技術、そして政府の姿勢だ。簡単に言うと、公的ネットワークに誰がいつどこでアクセスしたかの情報が常にオープンになっている(されている)、またブロックチェーン技術によりアクセスログをはじめ各種情報の改ざんは不可能であり、そのような安全確保の取組みを政府が自ら励行していることだ。
これから国内で本格的に運用される不動産IDの普及にあたっても、環境整備と取組みの励行が重要だと考える。メリットの強調はもちろん大事だが、制度が運営される際のルール、例えばアクセスできる主体は誰で、自分以外の誰か(それがたとえ公的機関であっても)がアクセスした際に不動産IDの対象物件所有権保有者にアクセスログが即時にシェアされる、場合によってはアクセスにパーミッションを与えることができるなど情報の安全性確保のためのルールが開示・認識・理解され、それを支える技術も示され、万が一の際の対処手順などについて政府部門が自ら率先垂範する。そのような環境や取組みについて、市民やユーザーに理解を深める努力を惜しまないことが第一歩だと考える。
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