高輪ゲートウェイ駅は、JR東日本が最新のハイテク技術をつぎ込んだ駅といわれます。駅の上空は羽田空港への進入ルートにあたっており、時間帯によってはひっきりなしにジェット機が低空で横切ります。

その一方で、周辺は歴史を伝える史跡の宝庫。古寺の上空をジェット機が飛び、玄関口たる駅は最先端。まるで現在の東京の姿を断片的に象徴している駅のようです。

駅と周辺の案内を音声とタッチパネルで応答するサービスロボット「EMIEW(エミュー)」

高輪ゲートウェイ駅は、JR東日本が所有する品川車両基地跡地の再開発計画「グローバルゲートウェイ品川」の一端として計画されました。

 

そうしたことから、実験段階のものを含め、さまざま試みが投入されています。

 

実証実験中の自立走行式駅構内案内ロボット。客の目的地まで駅構内を案内同行する

たとえばJR東日本初のQRコード改札。4ヶ国語対応で会話型案内が可能なデジタルサイネージ(電子看板)の配備。そして案内や清掃、警備などを担うサービスロボットの存在。こうした最先端の技術が見られます。

 

一方でネットなどでは「行ってみたけど周りに何もない」との発言が散見されます。

 

しかし、2020年現在の高輪ゲートウェイ駅はあくまでも「暫定」開業。2024年の完成を目指し、周辺も含めて再開発の途上であり、駅自体もすべての設備が完成しているわけではありません。「何もない」のは当然ともいえるのです。

 

でも、駅から少し足を延ばせば、高輪は「何もない」どころか、古い歴史を物語る史跡の宝庫です。高輪の地名と歴史を歩いてみましょう。

「江戸名所図会」(1835年ごろ)に描かれた高輪大木戸。この当時は関所としての役割はなくなっていたが、江戸の境界という意識は残り、見送りする者と旅立つ者のあいさつの風景が描かれている。料理店は送別会でにぎわったようだ。図中に描かれた石垣は現存している

高輪ゲートウェイ駅の駅名について、JR東日本は「ゲートウェイ=玄関口」としたうえで、「古来街道が通じ江戸の玄関口としてにぎわいをみせた地であり、明治時代には地域をつなぐ鉄道が開通した由緒あるエリアという歴史的背景」があることを述べています。この「江戸の玄関口」とは「高輪大木戸」のことです。

 

高輪大木戸は、東海道から江戸へ出入りする通行人や荷物を監視するため、1710(宝永7)年に設けられた簡易的な関所。

 

地面に石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けて、夜間には大木戸を占めて通行を制限しました。といっても手形がないと通過できないということではなく、「管理」ということに近かったようです。

 

当時はここが江戸の市中と市外の境界で、江戸町奉行の行政権の境界もここでした。文字どおり「江戸の玄関口」だったのです。しかし、それも寛政年間(1789~1801)くらいまでで、その後は廃止されて、自由に通行できるようになったと思われます。

 

現存する高輪大木戸跡。国道15号沿いにエノキの巨木が目立つ

高輪ゲートウェイ駅から第一京浜(旧東海道)に出て右折すると、ほどなく高輪大木戸跡の石垣が見えてきます。

 

かつて道路の両側につくられた石垣のうち、西側のものは道路の拡張に伴って取り壊され、東側の石垣だけが史跡として保存されています。

崖上の亀塚公園に上がる長い階段

高輪大木戸跡からさらに第一京浜を北上し、高輪郵便局の先で左の細い道に入ると、前方に高台の崖が迫ってきます。その麓に「亀塚公園」の標識があり、崖の上へ上る階段があります。

 

かたわらに立つマンションと比べると8階か9階くらいの高さがあります。この長い階段を上った頂上が亀塚公園です。

 

港区三田四丁目にある亀塚公園

亀塚は古墳時代以降に築造された円形の塚。しかし、発掘調査をしても埋蔵品などが発見できず、「古墳の可能性が高い塚」とされています。

 

この一帯は江戸時代には上州沼田藩主である土岐(とき)氏の屋敷跡で、さかのぼれば平安時代の『更級日記(さらしなにっき)』に記された「竹芝寺」の比定地とされています。つまり、この辺りは平安時代にすでに道が開かれていたということです。

 

この亀塚公園に沿った道路が、「高輪」の地名の由来となりました。「高輪」は、もともとは「高台」の「縄手道(なわてみち)」を意味する「高縄手」が語源とされます。

 

縄手とは、「縄を張ったようにまっすぐ続く道」の意味。その昔、地面に縄を張り、道を切り拓いていったことの名残といわれ、「縄手」の地名は全国各地に見られます。

 

1857(安政4)年 尾張屋清七版『芝三田二本榎高輪辺絵図』より。図上部の「土岐美濃守」とあるのが現在の亀塚公園。ほか、泉岳寺、承教寺など現存する寺院の名称が見られる

上に掲載の地図は、江戸時代末期、1857(安政4)年の切絵図。図のなかで海岸に沿って上下に貫いているのは江戸時代の東海道で、現在の第一京浜(国道15号)にあたります。

 

一方、切絵図の中央を弓型に上下に貫いているのが古道である縄手道です。この縄手道は、古代には「奥州街道」、中世には「鎌倉街道」「東海道」などと呼ばれた道でした。

 

一般的にいって、古代の道路の多くは高台や尾根沿いに拓かれました。海岸沿いは、荒天や高潮などの理由で通行できないことがしばしばあり、中世以前には道を拓くことが避けられたのです。

 

切絵図にある海沿いの道(江戸時代の東海道)は、江戸幕府を開いた徳川家康によって拓かれた道で、家康が江戸入りした1590(天正18)年には存在していませんでした。家康は、高台を通っていた東海道を海沿いへと移設したのです。

 

石垣や土塁の築造など土木技術が発達したこと、また片側が海、もう片側は崖という地形が、兵の配備がしやすく江戸の城下町の防衛という観点から見て、非常に有利であることなどが古東海道を尾根上から海沿いに移設した理由と思われます。

 

国土地理院地形図を加工

同じエリアの国土地理院地図を掲載しました。江戸時代の東海道は現在の国道15号となっています。

 

また、古道(縄手道、中世の東海道)もはっきりたどることができます。この国土地理院地図をベースに、5mごとに標高差を色分けした図が下図です。

 

国土地理院地形図をベースに彩色

これを見ると、国道15号よりも海側は白地、すなわち標高5m以下。そして、緑色の標高10m以下の地帯はそれなりに広いのですが、15m(黄色)、20m(オレンジ色)はあまり目立たず、標高25m以上を示す赤色が目立ちます。

 

つまり、海側から高台へは険しい崖となっていることが分かり、中世以前の土木技術では崖下の海沿いに道を拓くことはできなかったと想像できます。だからこそ、古代の主要街道は高台を選んで進んでいるのです。

 

この、高台を貫く道が、「高台の縄手道」すなわち「高縄手道(たかなわてみち)」、現在の「高輪」の地名のルーツとなるのです。

幽霊坂

古道(縄手道・中世東海道)は高台の尾根に沿っています。いわゆる「馬の背道」で、道の左右に延びる道は下り坂です。そんな坂の一つが「幽霊坂」。坂道の両側に墓地が続くことから名づけられました。

 

おしろいでまぶされた化粧延命地蔵

この坂を下った左手にあるのが玉鳳寺(ぎょくほうじ)。山門の左手にある地蔵堂に鎮座する、おしろいで白くなったお地蔵さまが「化粧延命地蔵」です。

 

顔のキズやあざを消してくれるお地蔵さまとして信仰されています。自分の体の悪いところと同じ場所におしろいを塗り、よくなるようにと願い事をとなえ、お礼参りの際には、地蔵の全身におしろいを塗るのだといわれます。

三田台公園

玉鳳寺から幽霊坂を戻って、縄手道に戻った右前方にあるのが三田台公園。

 

縄文時代の竪穴式住居が復元されている

ここは縄文時代の遺跡が発見されたということで、園内に竪穴式住居が復元されています。

 

縄文時代の貝塚の一部が、移設保存され展示されている

また、台地下にあるビルを建設する際に見つかった縄文時代の貝塚の一部が、移設保存され展示されています。

つるべに巻き付くアサガオは健在

江戸時代中期の俳諧師、加賀千代女(かがのちよじょ、1703~1775)の句として知られる見出しの句は、ここ高輪の薬王寺の情景を詠んだものとされています。

 

「ある朝、井戸に水をくみに行くと、アサガオが井戸の水をくむつるべに巻きついて花を咲かせているので、手折るのもためらわれ、近所で水をくませてもらった」という趣旨の句で、境内奥の墓地にある井戸がそれだとされています。

 

現在も、井戸の近くに多年生のアサガオが植えられ、つるべにつるが巻き付いており、句が詠まれた情景が見られます。

大石内蔵助切腹の地

時代劇ファンの聖地のひとつ。旧熊本藩主細川家の下屋敷跡で、現在は都営アパートになっています。

 

『忠臣蔵』で知られる赤穂義士の討ち入り事件(元禄赤穂事件)で、赤穂浪士は討ち入りの後、水野監物(みずのけんもつ)ら4大名家に分散して身柄を預けられました。

 

家老として討ち入りの指揮を執った大石内蔵助以下16人は、この地にあった熊本藩主細川家の下屋敷に身柄お預けとなり、討ち入りから1ヶ月あまりたった1703(元禄16)年2月3日、幕府から「全員切腹」の沙汰が下りました。

 

そして翌2月4日、細川越中守綱利は庭に畳を敷いて座所(切腹の場)を設け、ここで大石以下16名の切腹が行われたのです。

件(くだん)なのか、白沢(はくたく)なのか、謎の石像

縄手道をさらに進むと承教寺。日蓮宗の古刹です。この寺の門前には、独特の風貌のこま犬が置かれています。顔は人間っぽく、足には蹄(ひづめ)があり、どう見てもこま犬ではありません。

 

この像は、件(くだん)といわれています。人の顔と牛の体という姿をしており、牛から生まれ、人間の言葉を話し、必ず当たる予言をするという神獣です。ただ、人面牛身姿の神獣には白沢(はくたく)がおり、人語を操り、この世の森羅万象に通じていて、病魔よけのご利益があるといわれます。

 

外見だけでは区別しにくいのですが、江戸時代には白沢のほうが信仰の対象とされており、日光東照宮にも白沢図があることから、この像は白沢の可能性もあります。

 

ちなみに白沢は、コミックからアニメにもなった「鬼灯の冷徹」のキャラクターでもあり、ファンの間ではかなり知られた神獣でもあります。

典型的な表現主義建築の高輪消防署二本榎(にほんえのき)出張所。街並みで独特の存在感を示す

承教寺から少し歩くと、左手に、青く高い尖塔を持つひときわ異彩を放つ建物が見えてきます。これは高輪消防署の二本榎(にほんえのき)出張所。竣工は1933(昭和8)年ということで、時代的にも表現主義建築の代表作といえるでしょう。

 

青い尖塔は望楼であり、火の見やぐらです。実際に1971(昭和46)年まで使われていたといいます。現在は周辺に高層マンションがあって見通しも限られますが、建てられた当時は、高台という立地もあって、管内をすべて見渡せたと想像できます。

天保年間(1830~1844)に建てられた泉岳寺の山門

泉岳寺は赤穂四十七士が葬られていることで名高い寺。創建は1612(慶長17)年。現在の高輪には1641(寛永18)年に移転してきました。山門は天保年間(1830~1844)の再建。

 

赤穂義士墓所

山門の奥に本堂があり、左手へ進むと浅野家と赤穂四十七士の墓所。

 

首洗い井戸

手前には、吉良上野介の首を洗ったという首洗い井戸、大石主税が切腹した松平隠岐守の邸宅から運んだという主税梅などがあります。

 

赤穂義士記念館

境内の赤穂義士記念館には、浅野内匠頭が使用した陣がさ、大石内蔵助の直筆の義士連名書状など、赤穂義士ゆかりの品が展示されています。

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