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大阪・心斎橋界隈で活動を続けて30周年! TANK酒場店主・古谷高治さんに聞く、お店と街のこと
大阪・心斎橋界隈で活動を続けて30周年! TANK酒場店主・古谷高治さんに聞く、お店と街のこと

大阪・心斎橋界隈で活動を続けて30周年! TANK酒場店主・古谷高治さんに聞く、お店と街のこと

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堀江、アメリカ村と心斎橋界隈で30年、「TANK」という名を冠して活動を続けてきた古谷高治さん。さまざまな場を作り街と関わり続けたご自身の活動について、お話を伺いました。

22歳にしてアメリカ村にギャラリーをオープン

―古谷さんといえば、TANKギャラリーに、digmeout CAFE、digmeout ART & DINERそして、取材をさせていただいているここTANK酒場とずっとアメリカ村、心斎橋界隈で店をやられていますが、そもそもどのような流れで、お店をやることになったのでしょう?

古谷さん:「学生の時は、ファッションの専門学校行っていたんで、その頃から街をうろうろしてたんですね。で、街でいろいろやっている先輩に、遊びや仕事を教えてもらいながら暮らしていたんです。卒業後はめちゃくちゃ忙しい職場に就職して、とにかく働いていてお給料はどんどん貯まっていくばかりで、気がつけば200万ぐらいになってました。だから1994年10月に会社を辞めて、一度海外に行こうと考えていたんです。
それと同時に辞めてから『何かおもしろいことあったら手伝います』なんて、これまでお世話になっていた先輩に会いに行っていたんですよ。インターネットもない時代だから、実際に行かないと話もできないんで。
そして、当時コンテナがたくさん集まったような、アメリカ村の商業施設でガレッジというところがあって、そこにギャラリーカフェがあったんですけど、その施設を管理している不動産屋さんから、『ちょうど(そのカフェが)空いたからお前やれや』と言われて」

―え? どういうことでしょうか。

古谷さん:「急に言われて、コンテナが集まっているマーケットみたいなところの一番奥で、TANKギャラリーを始めたんです。
1994年11月、会社を辞めた翌月から。小銭も持っていたし、ほぼほぼ設備も整っていた。要は朝来て鍵を開けて、みんなが閉まったら鍵をかけるその施設の管理人的なことをやるという条件で、店は格安で借してもらってギャラリーを始めたんです」

現在、古谷さんが拠点とするPARCOのネオン食堂街。中央に見えるのがTANK酒場。
現在、古谷さんが拠点とするPARCOのネオン食堂街。中央に見えるのがTANK酒場。

―で、海外には行かず?

古谷さん:「アメリカに行こうと思っていたんですが、正直アメリかはいつでも行けるけど、店を22歳でやるチャンスはないなって思って」

―でも、すごい勢いですね。

古谷さん:「学生の時に飲食のバイトはしていたんで、多少はやれるから、『もうやりますわ』言うて。 ほんなら年明けたらすぐ、地震がきて」

―95年の阪神・淡路大震災ですね。

古谷さん:「その時、アメリカ村も冷え込みまくっていたんですけど、 アーティストの展示をしたり、カフェ営業のおかげで、出入りも結構多かったんですよ。そんな中で、知り合い伝いに、雑誌『Meets Regional』の人が来て、誌面で取り上げてくれはって。そこから、イベントで知り合った人が訪れてくれたり、どんどんお客さんも増えて。気付いたら今です」

―(笑)それは間をだいぶ飛ばしましたね。

古谷さん:「(笑)。最初は半年でも続いたら、いいかなと思って始めたんです。何にしても当時は、22歳やから舐められたらあかんと、イキってましたね。黒のラブラドールを飼っていたんですけど、その犬を散歩させて喫茶店やってるなんて、めちゃくちゃイキっているでしょ?」

―(笑)はたから見るとそう見えるところはあるかもしれません。

TANK酒場には、山根慶丈の描き下ろしイラストによるTANK酒場オリジナルのTシャツ販売も。
TANK酒場には、山根慶丈の描き下ろしイラストによるTANK酒場オリジナルのTシャツ販売も。

阪神・淡路大震災とアメリカ村のギャラリーで暮らす1年

古谷さん:「本当は友達の家で飼っていた犬が6匹くらい産んだんで、1匹譲り受けたんです。でも自分の親は犬が苦手で、実家では買えないので、谷町六丁目近くに家を借りて一人暮らしを始めました。
そこに住みながら、アメ村で働いて。そういう生活だったんですけど、阪神・淡路大震災の後、1ヶ月くらいして映像作家の谷本さんの友人で神戸に住んでいた人の家が全壊で住むところがないってことで、『それやったらうちを使ってください』と伝えて、僕はアメリカ村の店で暮らすようになりました」

―店? そのギャラリーカフェでしょうか?

古谷さん:「そう。(店に)風呂はなかったけどアメリカ村には銭湯『清水湯』もあったし、その頃にラブラドールを連れて界隈を散歩して」

―イキってたわけですね(笑)

古谷さん:「まだまだ若かったし、何なりとやれました。毎日寝袋で寝ても、遊べるだけ遊んで。そうすると友達もできて、みんな来てくれるし、(店は)なんか妙に流行って、やめるにやめられへんくって」

―古谷さん的に、最初に期限のようなものは決められていたのでしょうか?

古谷さん:「最初は、半年続けばと思っていたのが、続くし3年かなと思ってたんですよ。でも、いろんな人が来てくれて、雑誌とかでもよく載せてくれたりしていたんで、アメリカ村の会の人たちも『おもろいことやってるやつおる』みたいな感じで気にかけてくれ出して。自分が借りている物件の不動産オーナーが「うちにおもろい若いやつおんねん」みたいな話で集まりに出ることになって。
それから祭りがあるとか、何かあるたびにいろいろとお手伝いすることになり。そうこうしているうちに、店の近くにあったシェ・ワダの和田(信平)さんが御堂筋にでっかいメゾンを作るから『今使っているところ空くから、お前そっち移ってやれ、安く貸したるわ』みたいな話になって、自分もちょっと調子乗ってたからやることになったんです。
でも蓋を開けてみたら、40坪ないくらいで月40万。全然安ないやん! って思ったけど、オープニングの写真展は、野村浩司さん。そして次は蜷川実花ですよ。でも2001年に潰してしまって。1年持たへんかったな」

挫折と転機、堀江のdigmeoutのオープン

―ノリに乗っていたところから一気に降ってしまったわけですね。

古谷さん:「それからも助けてくださる方もいて、ギャラリーでのキュレーションとかキリンプラザ大阪の仕事させてもらったりしていたんですけど、どうも晴れず。現実逃避であったかい沖縄に行こうと思っていたんです。
そんな時に、占い大好きな友達の女の子がいて、『ちょっと占いでも行こうかな』って言うたら、やばいおばちゃんいるからって、めちゃくちゃ推されて、聞きに行ったんです。その頃ちょうど、スピンズと802が堀江にギャラリーをやるみたいなことで、谷口(純弘)さん(chignitta)に、『フルちゃん、ちょっと手伝って』と言われてはいたんですけど、気持ちの上では6対4くらいで沖縄行きだったんです。でも、そのおばちゃん、何にも言ってないのに『マスコミの方、最近周りに多いですね』『何か言われているお話はとてもいい話だと思いますよ』と。それで、グッと背中を押されて方向転換。2002年4月、digmeout CAFEのオープンになったという」

―堀江のオープンはその占い師さんのおかげですね。そこでまた人気が出るところができあがり、digmeoutは2006年に移転という流れになるわけですね。

古谷さん:「堀江が2006年の8月末で閉店して、アメリカ村でdigmeout ART&DINERとして再オープンしました。いろいろとその頃、運営会社の方向性も変わってきて、それなら改めて仕切り直しではないですが、自分でスポンサーも探してきてできる方向でとアメリカ村に移転したという流れです」

―その『digmeout ART&DINER』も2019年に閉店し、21年に今おられるTANK酒場に至ると。

お酒はこちらのカウンターで注文を。日々、付き合いのあるさまざまなジャンルの人がお客として、時にはDJとしてTANK酒場を訪れる。
お酒はこちらのカウンターで注文を。日々、付き合いのあるさまざまなジャンルの人がお客として、時にはDJとしてTANK酒場を訪れる。

街への恩返しとTANK酒場の顔として

古谷さん:「そうですね。ここはもともと、コロナ前からやることは決まっていて、僕は何も知らなかったんです。そんな中でこの地下空間の設計をやっている知り合いから、PARCOとして街に根差した人とやりたいという要望があるので、参加してくれないかという案内があって、じゃあお会いしてと話がまとまっていた矢先のコロナで、当初いた運営母体の会社が状況的にそれを引き受けるのが難しいとのことで、残ったメンバーでやることにはなったんですが、大変で(笑)」

―大変な時期でしたし、至る所でそんなことがあったと思います。

古谷さん:「リーシングも終わっていたのが、状況が状況なのでほぼ1からやり直すことになって、その中で、ここで自分が店をやって毎日いることを提案して。DJも入れつつ、でもお客さんをどんどん呼んでというのはできなかったので、なかなか難しい状況でした」

―またそれは凄い船出ですね。話は少し変わりますが、町の清掃活動もずっとされていますが、あれはどのような流れですることになったのでしょうか?

古谷さん:「green birdっていう NPO団体があって、2007年に『町の清掃活動してます』ってやってきたんです。そのNPOは以前から知っていて、その初代理事長の長谷部健が自分と同い歳みたいで、すごいことやっとんなと思ってました。で、その団体から大阪のチームを作りたいというような話をNPOのスマイルスタイルのしおちゃん(塩山諒)としているって。そこのリーダーをしてくれませんか? という話もあったんだけれど、それはやらずにスマイルスタイルとgreen birdの共同チームをアメリカ村に作って、清掃活動を続けています。街に恩返しができたらって、その思いだけでやってきて、今は月に1度、雨が降ったら中止、拠点はPARCOに移して、台車一台置けるところを貸してもらっているという感じですね」

―なるほど。そういう街との関わり方をされているわけですね。最後になりましたが、94年から数えると今年で30年になるわけですが、30周年を記念して何か計画されていることなどがあれば教えてください。

古谷さん:「まだノープランです。なんか作ろうかなとか、イベントなんかなとか。一応、この間、イラストレーターの中村佑介に『30周年になんか描いてくれない?』って冗談まじりに話したら、全然描くよみたいな話はあったけれど。その前に、このTANK酒場のあるフロアが3周年なんで、 まずはそれをやろうかなって感じでTシャツを作ることを考えています」

―パルコのネオン食堂街も3周年なんですね。おめでとうございます。

古谷さん:「2026年には昭和100年になるから、昭和っぽいイベントしたいなとも思っています」

<話を伺った古谷さんのお店>
TANK酒場
大阪府大阪市中央区心斎橋筋1丁目8-3 B2F心斎橋ネオン食堂街
11:00~23:00
06-6786-8150

今回お話を伺った古谷さんは、10代の頃から心斎橋、アメリカ村の界隈でさまざまな先輩に遊びや働き方を教わり、今ではその街に恩返しすべく、清掃活動などの団体に所属しています。

そんな心斎橋には、全国的にも名前が知られているアメリカ村があり、現在では居住するところというよりは、買い物や遊びの場という印象がありますが、実は、古くからお住まいの方々もまだまだいらっしゃる土地です。
また、東の堀江や南の島之内に行くとマンションなどが多数あります。繁華街に住む生活がお好きな方にはもってこいの立地と言えます。そんな心斎橋の家賃相場は、物件数の影響からは、ワンルームで9.26万円と高めとなっています。ただし、家を出ればすぐに繁華街という立地はなかなかな貴重でしょう。

IN/SECTS編集部

プロフィール:大阪という物理的なローカリティと、感性や共感といった同時代性的ローカリティを軸に、ローカル・カルチャーマガジン「IN/SECTS」を発行。現在、大阪の京町堀を拠点に、「IN/SECTS」のほか、書籍の出版も行う。年に一度、イラストレーターや飲食店、作家、アーティストと、アジアの出版社を集めたイベント「KITAKAGAYA FLEA & ASIA BOOK MARKET」を、北加賀屋にて開催。LIFE LISTでは、個の視点を通して見えてくる街や人の姿を紹介する。

※掲載内容の実施に関してはご自身で最新の情報をご確認ください

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