村野の作品として、初めて国の重要文化財に指定された建築

2017年3月に行われた村野藤吾「八幡市民会館」の存続問題を巡って開催されたフィールドセミナー、「村野藤吾のホール建築」(講師:京都工芸繊維大学笠原一人助教、主催:Club Tap)。

今回も以前の記事に書いた「米子市公会堂」に続き、「宇部市渡辺翁記念会館」についても触れておきたい。

「宇部市渡辺翁記念会館」は村野の作品として、初めて国の重要文化財に指定された建物だ。

前面道路側から見た外観。まっすぐ伸びたアプローチの正面に左右対象のファサードが見える前面道路側から見た外観。まっすぐ伸びたアプローチの正面に左右対象のファサードが見える

市の礎を築いた偉人を顕彰するために計画された公会堂

階段6段分の基壇の上に並ぶ6本の列柱は、この建物の建設資金を拠出した6つの会社を象徴している階段6段分の基壇の上に並ぶ6本の列柱は、この建物の建設資金を拠出した6つの会社を象徴している

「宇部市渡辺翁記念会館」の竣工は、日中戦争の戦渦が迫る1937(昭和12年)4月。村野にとっては独立8年目に当たる、比較的初期の作品だ。その建設経緯を説明するには、建物の名に冠された、宇部という街の歴史と、「渡辺翁」という人物について触れなくてはならない。

明治半ばまで半農半漁の小さな村に過ぎなかった宇部を、市政を敷くまでに発展させたのは、炭田開発だ。渡辺翁こと渡辺祐策(すけさく)を中心に、地元の人々が出資して、「沖ノ山炭鉱」を創業したことに始まる。

渡辺の先見性は、石炭景気に甘んじず、機械やセメント製造など、新しい事業を次々と興したところにある。「有限の鉱業から無限の工業へ」。限りある石炭資源を掘り尽くす前に、将来性のある産業を育てよう、と説いた。渡辺が創業した会社は7社に上り、うち4社が合併して設立した会社が、現在に続く「宇部興産」である。さらに、港湾や水道といったインフラ整備、学校や病院の創設も手掛けており、まさに宇部市の礎を築いた人物といっていい。

渡辺は1934年(昭和9年)に70歳で逝去。その直後から、翁の遺徳と業績を顕彰するための公会堂建設計画が始まっている。設計者に村野藤吾が選ばれたのは、当時、彼の設計で建設中だった「そごう大阪本店(1933〜37年竣工、2003年解体)」の工事関係者の推薦によるものだ。紹介された相手は、のちに宇部興産の初代社長となる俵田明。このときから、村野と俵田、そして宇部市の長く緊密な関係が始まった。詳しくは後述するが、村野はその後、生涯にわたって宇部で建築をつくり続けることになる。

市への寄贈を前提に民間が建設。モダンと様式美が共存するファサード

外壁見上げ。微妙な色合いの塩焼きタイルを、貼り方にも工夫して豊かな表情を生み出す外壁見上げ。微妙な色合いの塩焼きタイルを、貼り方にも工夫して豊かな表情を生み出す

米子市公会堂が、市民の募金と企業の寄付で建設費の多くを賄ったのに対し、渡辺翁記念会館は、初めから市に寄贈することを前提に、民間企業が建設した建物だ。1937年の完成後、1959年、1974年、1994年と、ほぼ20年間隔で大規模改修を行いながらも、竣工当時の雰囲気を留めている。

建物のファサード(正面外観)を構成する3重の壁は、それぞれ異なる曲率でゆるやかに湾曲している。その上に横長の窓が連なるさまは、さながら客船の艦橋のようだ。「1930年代の建築には船を連想させるものが多いが、この建物もそのひとつ」と、このセミナーの講師、笠原一人さんは解説する。

「一方で、列柱が並ぶ基壇やシンメトリーな3層構成は、八幡市民会館と表現は異なるものの、やはりギリシャ神殿に通じる様式美。モダニズムと様式性が共存する村野の“両義性”は初期から一貫していることが分かります」(笠原さん)

外壁は、八幡や米子と同じく塩焼きタイルだが、ここではそのどちらとも違う色合いを見せる。この色について、村野は生前のインタビューで「土管の色」から発想した、と語っている。

「あれはねえ、時間がたちますと、紫がかったとてもいい色に変ってくるんですよ。このくすりは鉄ですか、鉄釉ですかな。よくおぼえていませんが、今はね、たしかあのくすりは使えないはずですよ。公害問題で。とにかく発想のもとは土管なんですよ。土管の窯変のとてもいい色をしたのがあるんですよ。この色がいいなあ、ということでしたね。」
(出典:長谷川尭『村野藤吾の建築 昭和・戦前』鹿島出版会)

建物に近付くと、タイルの一部が縦に並べて貼られて横縞模様になっていたり、ところどころリズミカルに飛び出していたりするのが分かり、遠目に見るのとはまた違う、色合いと陰影の変化が楽しめる。

地域性を重んじつつ、時代や場所を超えて様式を融合するデザイン

渡辺翁記念会館の魅力は、客船や神殿以外にも、前後の時代に流行したヨーロッパの様々な芸術思潮が自在に組み合わされて、村野ならではの表現に昇華されている点にある。

建物全体の構造は、同時代のスター建築家、ル・コルビュジエの設計案に想を得たと考えられているほか、ロシア構成主義の影響も指摘されている。「内部の特徴的な円柱は、ドイツ表現主義を想起させますし、当時流行したナチス風のモチーフも散見されます。とはいえそこに、政治的意図はなかったと思います」と笠原さん。

円柱に山口県産の大理石を用い、玄関の壁に炭鉱夫をモチーフにしたレリーフをあしらっているのも、地域の特性を尊重する村野ならではだ。

(左上)1階ロビー。円柱は山口県産の大理石貼り、柱頭は顔料で彩色されている/(右上)ロシア構成主義風の壁画/(左下)仕事に向かう炭鉱夫のレリーフ/(下中)ル・コルビュジエ風の屋上/(右下)ドア上の欄間は日本伝統の無双窓をアレンジしたもの(左上)1階ロビー。円柱は山口県産の大理石貼り、柱頭は顔料で彩色されている/(右上)ロシア構成主義風の壁画/(左下)仕事に向かう炭鉱夫のレリーフ/(下中)ル・コルビュジエ風の屋上/(右下)ドア上の欄間は日本伝統の無双窓をアレンジしたもの

市民によって2度救われた銀行建築が、市民交流の場に再生

村野はその後、戦争で実現しなかったものも含め、十指に余る建築を宇部で計画している。渡辺翁記念会館の隣には、42年の時を挟んで、宇部市文化会館(1979年)が建設された。村野が亡くなる前年にも、宇部興産ビル(ANAクラウンプラザホテル、1983年)が完成している。

中でも、街と建築の関係を考えるうえで示唆に富むのは、渡辺翁記念会館のすぐあとに村野が設計した「ヒストリア宇部(旧宇部銀行本店)」だ。竣工は1939年(昭和14年)。この頃すでに日中戦争による物資制限のさなかで、かろうじて鉄筋は使えたものの、外壁に石を貼ることを断念した形跡がある。村野にとっては、必ずしも納得いく出来栄えではなかったかもしれない。

しかし、宇部銀行はそもそも、渡辺翁はじめ地元の実業家たちが、地域経済を支えるために、1912年(明治45年)に自分たちで設立した銀行である。その熱意を継承する銀行建築は、誰の作品であるかを超えて、宇部の人々の誇りにつながっているようだ。宇部で観光ガイドなどを務める「宇部市ふるさとコンパニオンの会」会長の脇彌生さんは、宇部が空襲に見舞われた際、当時の行員の必死の消火によって焼失を免れた、というエピソードを教えてくれた。

1944年(昭和19年)、当時の大蔵省の「一県一行主義」政策により、宇部銀行は山口銀行宇部支店に。建物はその後も増築や改修を重ねながら使われ続けたが、2006年(平成18年)に支店が新築移転、一時は解体が予定された。

このときも、建物を救ったのは市民だ。

保存・再生にかかわった山口大学大学院教授の内田文雄さんは「戦災で壊滅的な被害を受けた中心市街地において、銀行と、その前に架かる新川橋は、戦前の街並みをしのぶ数少ないよすが。歴史の継承に欠かせない遺構です」と語る。「あるお年寄りは、空襲のあと、見渡す限りの焼け野原に、渡辺翁記念会館と旧宇部銀行本店だけがすっくと建つ姿に涙が出た、と語ってくれました」。

シンポジウム等を重ねることで市民や議会に理解が広がり、一転、保存の方針が決定。さらに、その後約1年かけて活用方法を考える市民ワークショップを開催した。毎回100人近くの市民が集まり、熱心に議論を重ねたという。

努力が実り、建物は2008年に市に寄贈され、2009年には景観重要建造物の指定を受けた。大改修を経て2010年に市民のコミュニティーホール「ヒストリア宇部」としてリニューアルオープン。「現在も、展示会や会議などによく利用されています」と内田さん。

今年(2017年)、渡辺翁記念会館は開館80周年の節目を迎える。「今、官民共同で記念行事の計画を立てているところです」と前出の脇さんが教えてくれた。街の歴史を刻む建築の意味を改めて周知する、絶好の機会になることだろう。

■取材協力:Club Tap

(左上)「ヒストリア宇部」正面外観。北側コーナーを隅切りしてエントランスが設けられている(撮影:脇彌生)/(右上)通り沿いには親子で絵本が楽しめるカフェ/(左下)イベントホール。天井の八角形の開口部の一部はトップライトだったとされる(以上2点撮影:河野哲男)/(右下)銀行の夜間窓口だった部分。バイオリンのF字孔のような意匠が楽しい(左上)「ヒストリア宇部」正面外観。北側コーナーを隅切りしてエントランスが設けられている(撮影:脇彌生)/(右上)通り沿いには親子で絵本が楽しめるカフェ/(左下)イベントホール。天井の八角形の開口部の一部はトップライトだったとされる(以上2点撮影:河野哲男)/(右下)銀行の夜間窓口だった部分。バイオリンのF字孔のような意匠が楽しい

2017年 05月20日 11時00分