薬のまち、北浜道修町にある重要文化財「旧小西家住宅」

大阪城に居を構えた豊臣秀吉が、各地から商人を呼び寄せたため、「商人(あきんど)のまち」として栄えた大阪。
特に船場は、東西を東横堀川と西横堀川、南北を長堀川と土佐堀川に囲まれて水運の利がよく、外国船と盛んに貿易をしていた長崎との陸路の要所でもある。そのため珍しい舶来の品や薬などが集まり、商家が軒をつらねていた。

船場でも、特に薬種商人が集まっていたのが北浜道修町界隈だ。
堺から呼び寄せられた、薬屋小西吉右衛門が店を構えたのを発端として、薬のまちとして名を馳せることになる。さらに、徳川吉宗公が旅の途中で病に倒れた際、道修町の薬で快癒したため、薬種を検査して適正に価格をつけ、独占的に取り扱う特権を幕府より与えられると、ますます道修町の名が知られるようになった。

その後、西洋医学が導入され、薬も和薬から洋薬へと変遷していく中でも、道修町は薬種商の中心地であり続け、田辺製薬や武田薬品工業、塩野義製薬などの製薬会社も誕生している。

そんな土地に、明治時代に建造され、谷崎潤一郎の『春琴抄』の舞台モデルとなった旧小西家住宅がある。薬種商から発展した現在のコニシ株式会社は、「ボンド」の会社として全国的に知られている。
現在同社が所有している旧小西家住宅は、太平洋戦争の戦火からも阪神大震災からも免れ、ほぼ当時のままの姿を残しているという。普段は一般には未公開であるが、今回、特別に見学させていただき、取材することができた。

旧小西家住宅の外観。ビル群の中で、ここだけ時間が止ったようだ旧小西家住宅の外観。ビル群の中で、ここだけ時間が止ったようだ

二代目小西儀助がこだわり抜いて造った豪邸

上:小西家の当主である小西哲夫さん、下:お話しを聞かせてくださった経営企画部 経営企画グループリーダーの中谷光宏さんと、同じく経営企画グループの内田真由美さん上:小西家の当主である小西哲夫さん、下:お話しを聞かせてくださった経営企画部 経営企画グループリーダーの中谷光宏さんと、同じく経営企画グループの内田真由美さん

案内してくださったのは、コニシ株式会社 経営企画部 経営企画グループリーダーの中谷光宏さん、同じく経営企画グループの内田真由美さん。そして、現在の小西家当主の小西哲夫さんである。

旧小西家住宅は、現在小西家からコニシ株式会社(旧株式会社小西儀助商店)へと所有が移り、現在もグループ会社の事務所として一部使われている。近年までは小西家の居住宅としても、使われていたようだ。
その貴重さから平成13(2001)年6月15日に国の重要文化財に指定され、平成15(2003)年、大阪市の景観形成物にも指定された。

コニシ株式会社の創業者である初代小西儀助が、丹波から道修町へ移ってきたのは、明治7(1870)年のこと。
「カネキ小西屋」の屋号で薬種商を開業した。洋酒の製造にも着手し、その技術は、丁稚奉公にやってきたサントリー創業者に受け継がれるなど、後に花開いていく。しかし製造資金調達のための借金により、苦境に。そこで活躍するのが、二代目の儀助。薬刻みの腕をふるって寝る間も惜しんで働き、3年ですべての借金を返してしまう。その才覚を惚れ込まれ、儀助は小西屋の二代目になったのだ。

旧小西家住宅を建造したのは、この二代目小西儀助である。その天賦の商才で身上をこしらえると、新しい社屋の建築に乗り出した。土地の面積は、約1,060平方メートル(320坪余)というから、羽振りの良さが想像できる。

旧小西家住宅が戦災や阪神大震災による倒壊を免れたのも、当時の大工の腕もさりながら、儀助のこだわりも大きく影響しているだろう。
「たとえば、板塀には3重の構造をもつ釘が使われており、木材が釘の錆びで割れにくいのです。また、工夫を凝らした入り組んだ間取りも、住宅の強度に良い効果を与えているのかもしれません。儀助は建材にもこだわり、各地からさまざまな木材を取り寄せたようです。文書が残っていないため詳細はわかりませんが、檜や杉はもちろん、松や桐などが意匠に合わせて使われているほか、柾目の栂(とが)材をふんだんに用いられています。奥行きの深い床の間、二間半通しの落し掛けも意匠として力強い構成になっていますし、適材適所の木材が使われているため、震災に強かったのではないかと考えられます」と、小西さん。

旧小西家住宅は堺筋の拡張で改造され、現在の姿に

中谷さんによれば、「旧小西家住宅の完成は、明治36(1903)年。道修町通に面して商いを行う店棟と、その奥にある中庭で結んで表や造りの主屋、伏見通りに面して蔵、堺筋に面して貸家という配置で、どの街路からも出入りが便利でした。また、旧小西家住宅は太閤下水(豊臣秀吉が造らせた下水で、町と町の境を通っていた)を跨ぐほどの大邸宅だったのです」と、立地の良さも、当時から格別だったという。

しかし、明治44(1911)年に市電が開通して堺筋が拡張されると、堺筋に面していた住宅の西側の敷地の約300平方メートルを提供しなければならず、住宅を残すため「軒切り」の手法が使われた。主屋の西側も削って大改造され、このときに3階建の衣裳蔵が建てられている。さらに大正12年に関東大震災が起きると、大阪で同じレベルの震災があったときの被害を考え、母屋の3階部分は撤去。この時代の姿が、ほぼ現存しているという。

母屋に3階があるのがわかる、堺筋拡張工事による「軒切り」後の小西家住宅(写真提供:コニシ株式会社)母屋に3階があるのがわかる、堺筋拡張工事による「軒切り」後の小西家住宅(写真提供:コニシ株式会社)

商家としての当時の生活が伺える建物の造り

旧小西家住宅は建築当時、家族12人、従業員が35人、下女7、8人の合計52人が暮らしていた。それだけの食事を用意せねばならないため、台所には大鍋4つを同時に調理できる非常に大きなかまど(へっつい)が設置されている。また、台所の天井が高いのは、調理の湯気や煙がこもらないように、だそうだ。さらに、現在は撤去されているが、道修町通から蔵につながるレールがあり、商品を載せたトロッコが住宅内を走っていた。

儀助の居室であった書院の床の間は広々としており、畳が敷かれている。その前に敷かれた畳のみ、通常より半畳分大きい1.5畳なのは「縁が切れないように」の意味が籠められており、「商売繁盛(半畳)」の縁起担ぎにもなっているそうだ。

家人が生活をするのは2階の座敷で、夫人が暮らす南の間の隣に女中部屋がある。子供部屋も南の間から様子を見られるように配置されており、階段横の一段下がった和室の間は従業員の部屋であったという。

2階縁側にいると、前栽の空間が、都会の騒音を遮断すると同時に、涼しい風を運んでくる。そしてその向こうに大壁・切妻造・黒漆喰塗の衣裳蔵、同じく大壁造・黒漆喰塗の2階建蔵、一部を石張りし2、3階を大壁造・白漆喰とした3階建蔵と並んでいるのが見える。
蔵の横の壁には一見するとわからない隠し扉が設けられており、火災の際、即座に蔵の荷物を運び出せる工夫がされているのが興味深い。

さらに、「当時は、モダンな応接セットが設置された西洋風の社長室もあり、谷崎潤一郎の『春琴抄』や『細雪』が映画化された際は、旧小西家住宅が資料となりました」と、内田さんは教えてくれた。

旧小西家住宅の間取り。52人が生活していただけあって、広々としている(画像提供:コニシ株式会社)旧小西家住宅の間取り。52人が生活していただけあって、広々としている(画像提供:コニシ株式会社)

ビルの中に存在感を放つ「旧小西家住宅」が伝えるもの

ところで、コニシ株式会社は薬種商から当社が化学品の原料を扱う商社として発展する中で、接着剤研究中の人材をスカウトした。そして、つくった接着剤のサンプルを各方面に配布したところ、ある新聞社の記者が下駄の歯がとれたときに重宝したと記事にしたため、評判になったという。その後、大阪の家具屋や木工所に売り込み、木工家具用として一気に広がったことでボンドの会社として有名になったようだ。

旧小西家住宅の周囲は、近代的なビルが立ち並ぶ大阪のオフィス街のひとつ。
ビルの中にひときわ存在感を放つ旧小西家住宅は、大阪船場の歴史を彷彿とさせるとともに、大阪商人のスケールも感じさせてくれる。時代の変遷、保存の大変さ、またたびたびの戦災や震災にもかかわらず、こうやって残ってきたことは小西家の方々の強い想いと共に、奇跡のような建物の宿命と運を感じる。今後もこういった貴重な建物が、人々の想いで残りつがれることに期待したい。

小西家やコニシ株式会社は、地域の人と馴染みが深く、大阪市内の古い建物を巡るイベントなどでは、建物内部を公開する試みもしているという。現在は、未公開ではあるが、見学できる機会があれば、ぜひ一度訪れて「大阪商人の歴史」にも想いを馳せてみてはいかがだろうか。

左上:52人分の食事をつくった大きなかまど(へっつい)、</br>左下:植栽が音を吸収するのか、中庭は都会の中にも関わらずとても静かだ</br>右上:書院の床の間、続く縁側にも畳が敷かれている 右下:蔵の隣の壁には、一見それとはわからない隠し扉がある左上:52人分の食事をつくった大きなかまど(へっつい)、
左下:植栽が音を吸収するのか、中庭は都会の中にも関わらずとても静かだ
右上:書院の床の間、続く縁側にも畳が敷かれている 右下:蔵の隣の壁には、一見それとはわからない隠し扉がある

2017年 06月07日 11時05分