始まりは平安時代。良質な粘土のおかげで、時代に応じたやきものを生産

▲上/釉薬のかかっていない部分を見ると、瀬戸の粘土の白さがよく分かる。下/約200年前から磁器生産がスタート。主流の陶器を「本業焼」、新たな磁器は「新製焼」と呼んで区別した(撮影/窯垣の小径資料館)▲上/釉薬のかかっていない部分を見ると、瀬戸の粘土の白さがよく分かる。下/約200年前から磁器生産がスタート。主流の陶器を「本業焼」、新たな磁器は「新製焼」と呼んで区別した(撮影/窯垣の小径資料館)

お皿や茶碗などを総称する「せともの」の語源は、日本六古窯のひとつ、愛知県瀬戸市に由来していることをご存じだろうか。

なぜやきもの全般が「せともの」と呼ばれているのか、それは1000年もの間、常にやきものをリードしてきた長い歴史にある。瀬戸市での陶器生産の始まりは何と平安時代にさかのぼる。九州・有田焼の起源は約400年前、ドイツ・マイセンは約300年前といった名産地と比較しても歴史は古く、さらに1000年間、途切れることなく生産を続けてきた産地は世界でも珍しいのだとか。

「発展できた理由は、市内で良質な粘土が採れたことにあります。強い耐久性、適度な粘り気、そして一番の特長は『白さ』です。鉄分をほとんど含まないため、色とりどりの釉薬や絵付けが映えて、さまざまな種類のやきものをつくり出すことができました」(瀬戸市文化課、瀬戸市美術館館長 服部文孝さん)

平安時代の茶碗や皿づくりから始まり、鎌倉時代は祭事や武家のための器、江戸時代は庶民の日用品、明治は輸出用磁器、それ以降になると便器やガイシなどの工業製品にも発展。
「陶器と磁器を両方手掛ける産地は日本でも希少であり、高い技術力によって時代の要請に合わせた製品をつくり続けてきました。一方で、何でもできてしまうからこそ、これぞ『せともの』といった特色が出にくいのが今のジレンマともいえますね」

1000年間、脈々と続くやきもの文化は、瀬戸市のほかにはない価値のひとつ。窯業を生かして「まちのブランド化」を図る瀬戸市の取り組みを取材した。

昭和の前期~中期は、気風のいい職人が集まる「尾張の小江戸」

上/観光の中心施設「瀬戸蔵」。歴史が分かるミュージアムや食器販売コーナーがある。下/独特な景観の「窯垣の小径」上/観光の中心施設「瀬戸蔵」。歴史が分かるミュージアムや食器販売コーナーがある。下/独特な景観の「窯垣の小径」

名古屋の中心街・栄の「栄町」駅から、名鉄瀬戸線で終点「尾張瀬戸」駅まで約30分。この鉄道路線はなんと明治時代に開業したという。
「人の移動手段ではなく、原材料と製品の輸送用として鉄道がいち早く敷設され、産業のまちとして急成長しました。大八車で運ぶ時に陶器が割れないよう、道路の整備も進んでいました」

戦後になると、海外向けの洋食器やノベルティ(人形)の輸出が盛んになり、瀬戸の窯業は隆盛を極めた。昭和30~40年代には九州や東北から職を求めて多くの移住者もあり、職人のまちができ上がった。人口の7~8割が窯業に従事し、歓楽街や娯楽街も増えていったという。

「窯屋の職人の給料日は月2回で、翌日の1日と16日にパッと派手にお金を使う文化があり、演芸場や映画館、料亭や洋食屋などが建ち並んでいきました。『宵越しの金は持たない』といった職人気質から来る気風のよさから、瀬戸は『尾張の小江戸』とも呼ばれました」

ところが1970年代、「1ドル360円」時代から通貨レートが急激な円高へ移行すると、海外向けの生産は次第に減り、まちの活気も変化していく。

「これまで瀬戸の製品は卸売商社を通して全国や世界へ販売していたため、まちはあくまで生産現場であり、観光客や小売客は呼ばなくていいと考えていました。でも産業の斜陽化を受けて、昭和の終わりから『観光にも力を入れていこう』という機運が高まっていったと言えますね」。

ここから瀬戸の「まちのブランド化」がスタートする。

やきものゆかりのノスタルジックな文化財を、次の世代へ―

瀬戸市は戦火を免れたこともあり、「尾張瀬戸」駅周辺の中心街には、細い路地や坂道、トタン屋根の長屋といったノスタルジックなまち並みが広がる。なかでも瀬戸でしか見られない景観として「窯垣」が有名だ。これは、窯で焼く時に器を並べる棚として使われた耐火性の陶板等を、垣根や土留めなどに有効活用したもの。陶製の棚板等を幾何学的に並べた窯垣は、大小含めて市内に約600ケ所残っている。

このようなやきものに関わる地域の文化財を保存・保護し、活用していくために、2017年2月「歴史文化基本構想」が策定された。文化庁の取り組みの一貫であり、「文化財を残すためのバイブルができたので、今後はさらに市民の理解を得ていきたい」と服部さんは話す。

というのも「まちの文化財を残すべき」という総論は多くの市民が賛成だとしても、具体的に予算を使う場合は「教育や福祉を先に充実させるべき」などといった賛否両論が生まれてくる。
「未来永劫残すべき芸術品や建物は指定文化財として保存することができますが、そうでないものをどうすべきかが課題です。例えば、地域のお祭りで風習や衣裳を大切に受け継いできたものの、少子化で『お祭りをやめよう』という声が上がれば、市が強制的に保存を進めることは難しくなります」

そこで瀬戸の「まちのブランド化」を進めるには、まず「市民にまちの魅力を知っていただき、貴重な文化を誇りにしてほしい」と服部さんは語る。瀬戸市文化課では昨年、同構想のアクションプランとして、1年間で13回の「まちめぐり」を実施した。今後は学校教育とも連携することにより、若い世代の興味を高めていきたいそうだ。

▲「尾張瀬戸」駅から徒歩10~15分ほどのエリアを散策。上/明治の建築物「古民家 久米邸」では織部の器で甘味やコーヒーを味わえて、まちめぐりでも大人気だったそう。下/まちの随所に「窯垣」や路地・坂道が残り、タイムスリップ気分▲「尾張瀬戸」駅から徒歩10~15分ほどのエリアを散策。上/明治の建築物「古民家 久米邸」では織部の器で甘味やコーヒーを味わえて、まちめぐりでも大人気だったそう。下/まちの随所に「窯垣」や路地・坂道が残り、タイムスリップ気分

産業の文化財は残りにくい。「旧山繁商店」の活用プロジェクトが始まる

▲「旧山繁商店」は市が所有し、活用法を検討中。案内板がなく訪れる人は少ないが、不思議な存在感がある▲「旧山繁商店」は市が所有し、活用法を検討中。案内板がなく訪れる人は少ないが、不思議な存在感がある

「産業に関する文化財は後世に残りにくいのですが、なぜだか分かりますか?」と服部さん。その答えは景気に左右されるため。工場や倉庫といった建物は、会社が右肩上がりであれば壊して新設するし、不景気になれば土地ごと売却してしまい、結局跡形も残らないのが現状だ。

そこで今、瀬戸市では、瀬戸を代表する卸売商社「旧山繁商店」の保存・活用をすすめている。約2,800m2の敷地には、明治から昭和にかけて建てられた事務所や倉庫など9棟が残り、2015年に国の文化財として登録された。
「卸売商社という瀬戸のやきもの文化を特長づける建造物であることや、周辺にやきもの関連の神社・名所があり観光拠点にもなり得ることから、保存修理して活用したいと考えています。現在、保存調査や市民向けワークショップを進めているところです」

昨年はワークショップを2回開き、参加者から「カフェや工房にしたら」といった幅広い意見が出たそうだ。現地をのぞいてみると、敷地や倉庫がかなり大きく、木造のため壁や屋根の傷みが目立つ。即活用は難しいかもしれないが、保存修理すれば観光の目玉になりそうだと感じた。

「せともの」の語源となる瀬戸市。市と住民のタッグで、まれな産業文化が受け継がれていくことを期待したい。

2017年 04月18日 11時07分