同潤会が復興住宅として建てた木造長屋が品川区中延に

上は昭和6年の地図。中央部に同潤会住宅と書かれ部分があり、湾曲する道が巡らされているのが分かる。左上の四半分を除き、こうした湾曲した街路が作られていた 下はGoogle Earthで見た現地。周辺に比べて不自然な角度で家が建っている区画があるが、これがかつての湾曲した街路に沿って建てられた荏原住宅の名残り。外側の道路に面した住宅は建替えられたが、内部は建替え不能で残されてきた上は昭和6年の地図。中央部に同潤会住宅と書かれ部分があり、湾曲する道が巡らされているのが分かる。左上の四半分を除き、こうした湾曲した街路が作られていた 下はGoogle Earthで見た現地。周辺に比べて不自然な角度で家が建っている区画があるが、これがかつての湾曲した街路に沿って建てられた荏原住宅の名残り。外側の道路に面した住宅は建替えられたが、内部は建替え不能で残されてきた

同潤会といえば表参道や代官山などにあった集合住宅をイメージする人が多いだろう。だが、関東大震災後の住宅不足に対処するために設立された、同潤会が復興住宅として建設したのは集合住宅だけではない。低層木造住宅も多く建てられており、そのひとつの類型が大正13年度内にほぼ完成した、医職住を考慮した付帯設備のある普通住宅(仮住宅と区別するための名称)である。

東京、横浜の12ヶ所に点在する普通住宅は全部で3,700戸あまり。まとまった土地が確保しにくかったのだろう、それらは当時としては郊外の、まだ農村だった地域に建てられた。東京の場合で言うと、昭和7年(1932年)以前の旧東京市は周囲を南葛飾郡、南足立郡、北豊島郡、豊玉郡、荏原郡の5つの郡部で囲まれていたが、建設地はすべて郡部にあったのである。特に集中していたのが北豊島郡、南葛飾郡、荏原郡など。といってもそれらの群は全て、現在は23区内の地域である。当時の東京のサイズが分かろうというものである。

その時に建てられて以来、増築を重ねたり、一部が建て直されたりしつつも、現存するエリアがある。それが品川区の西部、東急池上線荏原中延駅から北西に約250~300mほどの場所にある、当時は荏原住宅と言われた一角である。ここに建てられたのは2階建ての、4戸が1棟になった長屋で、総戸数は356戸。中央から放射線に伸びる5本の通りとそれを繋ぐ婉曲した道はどこか田園調布の街区を思わせる形状をしている。敷地内には児童遊園、公益質舗、娯楽室、医院などもあった。

当初は通勤が無駄と不人気だった!

地域内には不思議にカーブする路地がいくつか残されていた地域内には不思議にカーブする路地がいくつか残されていた

だが、この普通住宅は当初、評判が悪かったらしい。2004年に出された内田青蔵著「同潤会に学べ 住まいの思想とそのデザイン」(王国社)によると、大正14年(1925年)4月12日付けの読売新聞は「数千戸の小住宅がガラあき 面食っている同潤会」と題した記事を掲載しているという。その時点では一時の住宅不足はある程度解消されており、そこに交通の不便な場所に建つ、長屋建ての小住宅である。大正15年の時点で12ヶ所の住宅数3,475戸に対し、空き家が925戸。およそ27%が空いていたというから、人気の高かった同潤会アパートしか知らない身にはショックな話である。

ただ、興味深いのはこの失敗に対し、同書で内田氏が書いていることである。以下、引用する。

「ところで、この普通住宅事業の失敗は、見方を変えれば、低所得者の間に交通費を払いながら郊外に居を構えて通勤するという方法が、まだ受け入れられていなかったことを意味するといえる。言い換えれば、郊外住宅地は、ある一定の収入を擁する都市中間層以上の人々の特有の生活形式として定着していたことが推察されるのである。(以下略)」

つまり、大正末期から昭和初期にかけては、今では当たり前となっている、交通費をかけて郊外の、環境の良い場所に住むという行動は中間層以上の、特別なスタイルだったというわけである。関東大震災から約100年。住宅に関する行動はかくも変わったわけだ。

増築、増築を経て広かった街路はどんどん狭く、危険に

東京大学の大月敏雄教授によってどのような増築が行われたか、本来の姿はどうだったのかなどの調査が行われた。上が増築後の姿、下が増築部分を除去した姿で、道幅もこれによってかなり狭められていた東京大学の大月敏雄教授によってどのような増築が行われたか、本来の姿はどうだったのかなどの調査が行われた。上が増築後の姿、下が増築部分を除去した姿で、道幅もこれによってかなり狭められていた

その後、昭和18年に住宅営団によって全住戸の建増しが行われ、当初は神輿が通るほど広かった街路は両側から1間(180cm強)ずつ狭められた。さらに第二次世界大戦中には建物疎開(延焼などを防ぐため、建物を強制的に撤去すること)によって規模が縮少。戦後出版された地図帖「コンサイス東京35区区分地図帖戦災消失区域表示」に掲載されている建物疎開が行われた区域の表示から判断すると、この時期に全体の3分の2ほどの建物が撤去されてしまったようである。

昭和25年には宅地・建物が住んでいた人たちに払い下げられ、以降、個人がそれぞれに増築を重ねて行く。そのため、本来は震災復興のため、防災を意識してゆったりと作られていた街は徐々に木造住宅密集地域化していく。元々の住戸が4畳半、3畳の居室にトイレ、台所、玄関という狭さであり、かつ周辺の道幅に余裕があったことを考えると、増築したくなる気持ちはよく分かるが、いささか、やり過ぎたらしい。平成28年12月に現地を訪れた時には消防車など入りそうもない、幅2m未満の細く湾曲した路地が伸びる、いかにも防災上に不安を抱えた地域となっていたのである。

現在、建物は木造住宅が9割以上で、しかも、旧耐震が8割超。しかも、地区居住者の4割超は65歳以上。高齢化率は品川区全体の2倍もの水準に及んでおり、こんなところで火が出たら、ひとたまりもない。

危険でも個人での建替えは困難だった

地域内で大きくセットバックして建替えられた住宅と、増築で道にはみ出した住宅(右)。元々は広い道路だったはずなのだが地域内で大きくセットバックして建替えられた住宅と、増築で道にはみ出した住宅(右)。元々は広い道路だったはずなのだが

もちろん、防災上の懸念は最近になって始まったことではなく、地元ではもう30年以上も前から危険が指摘されてきた。地区内に防災倉庫、5ヶ所ほどに消火器を備え付け、自分たちで放水訓練を行うなど、防火対策には熱心に取り組んできたそうだが、人一人通るのがやっとの路地に古い木造住宅が建ち、高齢者が大半の状態ではいくら備えても不安は消せない。実際、過去には放火事件があり、住民一同ひやりとしたこともあったとか。

だが、建替えなど、個人による問題解決は難しかった。というのは昭和25年の払い下げに当たり、便宜的に各戸の持ち分を決めたのだが、そこで決定した持ち分は1階住戸、2階住戸で複雑に入り組んでおり、整形になっていない。そのため、一戸だけでの建替えは不可能になっているのだ。

さらに建替えるとなると増築で狭くなった道幅を広げなくてはいけないが、向かい合う住戸に建替えの可能性がないとすると、一方だけで大きくセットバックすることになる。当然、住宅としては従前よりも小さくなってしまう。それでもごく一部、隣り合う二戸を一戸にして建替えた例もあるようだが、大半の人は危険を感じながらもなす術がなかったのである。

重い腰を上げて地区全体への建替えへ

かつての荏原住宅内の様子。退去、解体が始まっており、もう少しすると消えてしまう風景だかつての荏原住宅内の様子。退去、解体が始まっており、もう少しすると消えてしまう風景だ

それが動き始めたのは平成22年。木密地域解消に力を入れる品川区が、コンサルタントを入れ、個別ではなく、地区全体での建替えを模索し始めてからである。以降、平成26年には整備事業の準備組合が設立。平成27年には都市計画決定、さらに平成28年には事業組合の設立も認可され、平成29年2月現在、同潤会荏原住宅は退去がほぼ終わり、解体を待つばかりとなっている。経過だけを書くと簡単そうだが、「大変だった」と首都圏不燃建築公社の再開発部課長・越渡(こいど)英雄氏は言う。

「平成27年の段階で賛成が3分の2という状況でした。全84戸、関係者約140人のうちには70代、80代も多く、当初は自分が死んでからにしてくれという人も。現在も転居先が決まっていない借家人を説得に行っています。それでも多くの人には安全な街になるなら仕方ないと、重い腰を上げていただきました」。

駅から数分とかからない住宅地で商店街、小学校も近いという恵まれた立地だが、事業計画的には厳しいと旭化成不動産レジデンスの高橋悟氏。

「建替え後は195戸と現在の倍以上になりますが、余剰住戸を売却した資金と補助金で個人負担がぎりぎり無くて済んでいる状態。しかも、建替え後の床面積は以前より狭くなります。駅前の再開発に比べ、住宅地では容積率や高さの制限、日影規制など、より厳しい条件での建替え計画となります。セットバックを大きく取る、公園や広場を取るなどの必要もあり、事業計画的にはかなり厳しかったのですが、地域の皆さんの防災意識の高さが計画を後押ししてくれました。ここが生まれ変わる姿を見ていただくことで他の木密地域の解消が進んでいけばと考えています」。

公費も入っての建替えは外から見ていると羨ましく思えるかもしれないが、現実はなかなか辛いもの。それでも高橋氏の言う通り、安全な暮らしが実現できればなにより。住宅は人を守るものでなくてはいけない。今後建物の解体を経て、平成29年6月から建設工事が始まり、竣工は平成31年3月の予定。風景が大きく変わることだろう。

2017年 03月20日 11時00分