「天国の百万円アパート」と呼ばれた宮益坂ビルディング

31階の宮益坂ビルディングだけが飛びぬけて高い昭和30年の状況。写真提供:渋谷宮益坂商店街振興組合31階の宮益坂ビルディングだけが飛びぬけて高い昭和30年の状況。写真提供:渋谷宮益坂商店街振興組合

首都圏では4.6世帯に1世帯がマンションに住む(*)。今やマンションはごく一般的な居住形態というわけだが、その歴史は意外に短い。日本で最初の分譲マンションが登場したのは1953年、63年前である。その日本初の分譲マンション「宮益坂ビルディング」が建替えのために取り壊されることになり、見学に行った。マンションのルーツはどんな建物だったのか。ご紹介しよう。

場所は渋谷駅から徒歩数分。渋谷ヒカリエ、宮益坂に隣接する一等地である。建設当時の渋谷は2階建てまでの建物が中心の、今の郊外住宅地のような風景が広がっており、唯一、高い建物と言えば1934年に完成した東急百貨店程度。建替え後は直結となる地下鉄銀座線は1939年の開業で、完成から2年後の写真で見ると右手に地下鉄の高架があり、多少は高い建物が増えてはいるものの、今の渋谷からは及びもつかない。その中にあって11階建ての宮益坂ビルディングは一際目立つ存在だった。

分譲したのは東京都。この時期にはまだ日本住宅公団(現UR、1955年)、東京都住宅公社(1966年)などはできておらず、直接都が分譲する形で、金額は100万円前後。国税庁の民間給与実態統計調査によると1955年の給与所得者の平均年収は20.8万円だから、給与の4.8倍ほど。高度経済成長期以前の、まだ給与所得者が少ない時代と考えると、新聞が「天国の百万円アパート」「特別船室さながらの豪華版!」「住宅70室に対して会社重役が47人申込み」などとあるのは当然といえば当然かもしれない。

(*)2015年マンション化率 東京カンテイによる

青い制服、白手袋のエレベーターガールが勤務

しかも、当時はまだ住宅ローンがない。そのため、支払条件は3割、7割の2回払いというもの。現金を持っている人しか買えなかったのだ。ちなみに住宅金融公庫(現住宅金融支援機構)は1950年6月に設立されているが、当初の融資対象は住宅分譲事業者。一般の住宅購入者に貸すようになったのは1970年になってから。それまでは住宅購入には多額の現金が必要で、買えるのは一部の人たちという状況が続いていたのである。

そんな高額物件だが、広さは34.01mで2.6畳の和室2間にキッチン、浴室、トイレの2DK。今の感覚だと単身あるいは2人暮らし向きの広さ、間取りだが、当時はここにファミリーも居住。廊下は子どもたちの遊び場だったという。

今とは全く異なる部分もたくさんある。列挙してみよう。電気、水道は個別契約ではなく、ビル全体で契約しており、それは取壊し直前まで同様の形態だった。電話は1階管理人室横に電話交換室(!)があり、交換手が内線で接続した。暖房はセントラルヒーティング方式となっており、地下にボイラー室、屋上にはその煙突が今も残っている。各住戸にはスチーム式の暖房器が置かれた。廊下の端部にはダストシュート、エレベーター横にはメールシュートがあり、ゴミ、手紙を放り込むと1階に到達、管理人がモノに応じて処理、手配をするという形だった。

そして、もっとも今と違ったのはエレベーター内にはブルーの制服に白い手袋のエレベーターガールがいたということ。宮益坂ビルディングは日本初の分譲マンションだっただけでなく、おそらく日本初のエレベーター付きの住宅だったのだ。今どき、エレベーターガールがいるのは百貨店か、一部のブランドショップのみ。その一事だけでも、ここが当時、超が付くくらいハイソな住まいだったことが伺える。

エントランスホール。照明や階段の手すりなどにこだわりが見られるエントランスホール。照明や階段の手すりなどにこだわりが見られる

狭い空間に往時の大工さんたちの工夫、気配り

プロの目からは随所にこだわりが見て取れるという室内プロの目からは随所にこだわりが見て取れるという室内

建物内を見せていただいた。エントランスホールは右側にエレベーターが二基、その脇にメールシュート、正面に管理人室、左手に階段。管理は24時間管理で、管理人室にはロフト的な寝室が作られていた。階段の手すりは一般に人研ぎと言われる人造大理石の研ぎ出しとなっており、曲線が手作りで住宅が作られていた時代を思わせる。照明などもレトロな雰囲気である。

だが、廊下、エレベーターホールなどは今の目で見ると至って簡素。共用部にお金をかける時代ではなかったのだろう。リフォームなどをせず、竣工当初のままだという507号室に入れていただく。入って最初に感じたのは天井の低さ。2m25cmだそうで、最近のマンションで平均的な2m40cmからすると、たった15cmの差は意外に大きい。この建物竣工時からすると日本人の身長はかなり伸びている。昔の建物を低く、狭く感じるのは無理もないかもしれない。

間取りは入った右手にキッチン、その奥に浴室、正面に和室2室となっており、和室には腰高の窓。ぱっと見には普通の和室に見えるが、所有者の女性の説明によると回り縁(天井と壁の間にぐるりと回してある部材)、付け鴨居(建具の入らない部分に取り付けられた鴨居)などといった和室の、手間のかかる意匠が丁寧に作られているのが特徴とか。床の間の天井には掛け軸用の金具が設置されており、スチールの窓サッシの内側には和室と違和感がないようにだろう、木製の枠が。また、スチールの窓枠が雨で錆び、窓が動かなくなるのを防ぐため、窓は上から吊る形にするなどの配慮もあり、細部にまで心遣いがある。それまでコンクリート造の住宅を作ったことのなかった大工さんたちが一生懸命工夫し、良いモノを作ろうとした姿勢が伺えるようだ。

給排水管の老朽化などに悩み、建替えを決議

建物裏側。左手に見える煙突は地階にあるセントラルヒーティング用のボイラーの煙を排出するためのもの建物裏側。左手に見える煙突は地階にあるセントラルヒーティング用のボイラーの煙を排出するためのもの

当初は1階が店舗、2~4階がオフィス、5階以上が住宅として分譲したものの、渋谷のど真ん中である。次第に住宅部分の事務所化、賃貸化が進み、築後25年時点では当初から居住しているのは5世帯、住宅として使われているのは全70戸のうち、40戸となっていたという。その後、給排水管の老朽化などが悩みとなり、25年以上も前から建替えを視野にいれた「宮益坂ビルを考える会」が活動。2003年には建替え決議が成立している。

だが、これ以降、実際の建替え決定までは紆余曲折の歳月がある。ひとつにはこの建物が建った時代には住宅ローンだけでなく、区分所有法(1962年)もなかったという点に問題がある。敷地権という概念がなく、具体的な経緯は不明だが、敷地に関する権利は借地権を区分所有者が準共有するという権利形態がとられていた。土地の所有権自体は分譲以来、東京都が所有。2007年には最初の建替え計画が出たことを受けて全区分所有者が東京都から底地を購入、所有権を取得している。また、マンションの登記についてのルールもなかったことから、専有部分の売買時に、専用部分のように登記され、かつ区分所有者全員の共有となっていた法定共有部分の登記移転が行われておらず、いつまでも旧区分所有者が持っている形になっている部分も少なくなかった。建替えにあたってはこうした錯綜する権利の整理にも時間がかかったそうである。

さらに住宅だけでなく、オフィスや店舗といった複合用途の建物であったこと、所有者以外の居住者が多かったことも合意形成では課題になった。また、最初の建替え決議を受けて決定した事業者はリーマンショック時というタイミングもあってか、途中で辞退。再度事業協力者を募るなどのトラブルもあった。

小規模住戸、オフィスを中心に東京五輪前年に竣工予定

再度の建替え決議が成立したのは2012年4月。翌2013年8月には建替組合設立が認可され、着工は2016年の3~4月頃。時期が流動的なのは渋谷区による権利変換計画の認可を待ってになるとのこと。事業協力者はこれが25棟目の建替えとなる旭化成不動産レジデンス。

竣工は東京五輪の前年、2019年を予定しており、建替え後は地上15階、地下2階という建物に。従前同様、店舗、オフィスが4階までに入り、5階以上は住戸。戸数は152戸で、最も多く作られるのは30m2~の1K。現在、渋谷の再開発で予定されている他の建物とは異なり、小規模な住宅、オフィスが中心でベンチャー企業のオフィス、SOHO利用なども見込んでいるという。再建マンションの3階レベルに設置されるスカイデッキを介して建物南側の銀座線と接続する計画もあり、非常に便利な住まいになる。

もちろん、価格もそれなりだ。見学会時、それを質問した記者がいた。竣工時の坪単価(3.3m2単価)は現在の価格にすると1000万円(!)にあたるが、再建後もそのくらいになるかという質問だったのだが、答えはそこまでにはならないだろうが、これまでの同社の建替えマンションでは最高額になる可能性大とのこと。渋谷居住は今も昔も高嶺のならぬ、高値の花らしい。

通りの左側にあるのが宮益坂ビルディング。坂を下った先が渋谷駅。目と鼻の先だ通りの左側にあるのが宮益坂ビルディング。坂を下った先が渋谷駅。目と鼻の先だ

2016年 03月07日 11時05分